逃亡者たち・7(最終話)


 朝日が出るまで滔々と話し続けた二人は、一睡もせずにそのままホテルを出た。眠たくて、欠伸を噛み殺しながらルヴァの言う方角へと向かった。
 夜半、彼の話にじっと耳を傾けながら、愛情が憎悪に変わる前の事を考えていた。あの時も、自分はこんなふうにじっと彼の話を聞いていたのだった。要点を得ないし、喋り方はゆっくりだから苛つきもするけれど、聞いているというその行為だけが純粋に嬉しかった。
 それを思い出していた。彼の話は他愛も無い世間話や研究結果が殆どだったけれど、楽しかった。今の気持ちは、あの時と少しだけ似ていた。
 ホテルを出た途端、太陽が眩しくて何度も瞬きした。徹夜明けにはきつい一発だ。赤みを帯びた朝焼け。始まりを感じさせた。逃げない事への始まり。
「怖い……ですか?」
 隣の、やはり一睡もしていない筈のルヴァは、しかしなぜだか元気そうだった。
「怖いって何が」
「ロザリアはきっとあなたを許さないでしょうね」
「そんなのとっくに考えてた事よ。怒りのあまり聖地を追い出されるならそれもそれ。残してもらえるのなら、それもそれ。……どっちにしたって、もう、逃げてちゃ駄目なんだわ」
「……仰る通りです」
「言いたい事があるなら、もっと初めからロザリアと喧嘩しておくべきだったの。嫌なら嫌って、何の形にもせずに逃げ出した私には、それだけの罪があると思うわ」
 ルヴァが立ち止まって、前方を指差した。
「ここを真っ直ぐ行けばオスカーに会えるでしょう。あちらから、濃厚なサクリアの気配が伝わってきます。……行けますか?」
「行けるわ」
「……よろしければ、私に最後のエスコートを」
 手を差し出したルヴァに、こくりとひとつ頷いて。アンジェリークは彼の手を取った。彼の体温を感じるのも、おそらくはこれが最後だろう。過去に、こうして何度も望んだであろう情景に今ようやく突き当たった事を、アンジェリークは感じた。
 ルヴァの事が、本当に純粋に好きだった時には、手さえ繋ぐ事が出来なかった。
 満足だった。

 向こうから歩いてきたオスカーが、静かに寄り添う二人を見て、「陛下」とだけ呟いた。



 随分久しぶりのような気がする。実際にはそれほど時間が経ったわけでもないのに、聖地の有様を懐かしく感じた。星の小途から出た時に一番に目に入ったのは、宮殿の荘厳な美しさと、それをしょって立つロザリアだった。
「……ロザリア」
「よくも、おめおめと醜態を晒して帰って来れたものね」
「……あなたの勝利よ。帰って来たわ」
 ロザリアはかつかつと良い音を響かせてアンジェリークに近寄ると、盛大に打った。頬に痛みが走り、反射的に涙がぽろりと零れ落ちた。体が勝手に反応したもので、反省や彼女の怒りに触れた恐れからそうなったのではない。ロザリアの事は、怖くは無かった。
「そうよ、帰って来たわ……ロザリアを女王にするために逃げ出したけど、上手くいかなかった。あなたが女王の地位が欲しいって思ってる事くらい、知ってたわ。だから」
 再び、同じ側の頬に痛みを覚えた。ロザリアは興奮に顔を赤くさせている。
 頬を手で押さえて、改めてロザリアをまじまじと見つめた。泣いているのはロザリアの方だ。悔しさに眉を歪ませ、その青い瞳からは止め処なく涙が溢れていた。
「馬鹿にするのも程々にして! 知っていたわ、あなたが女王になんてなりたくなかった事くらい! 意欲が無い事くらい、分かってた! だけど、わたくしは宇宙意志には選ばれなかった……どんなに女王になりたくても、一旦選ばれたものには変更が利かないんだから……」
「ロザリア」
 我を失うロザリアには、アンジェリークの制止が聞こえた様子が無かった。なおも畳み掛ける。
「知っていたわ! ルヴァが毎日毎日サクリアを送り続けていた事を! そんな手段でも、選ばれた者の勝利なのよ……。わたくしは、そんな卑怯な方法で勝ったあんたが憎くてたまらなかった。……わたくしだって、女王になりたかった……。そのために、生きてきたんだもの……わたくしだって、奪えるものなら手に入れたかった……」
 その場に泣き崩れるロザリアを見て、アンジェリークは深く納得するのだった。同じだ、と。ひとりは女王の地位を捨てたくてたまらなかった。ひとりは女王の地位が欲しくてたまらなかった。お互いが、逆なら良かったのにとどちらもが考えていた。そのおぞましいまでの執着心は、互いに似過ぎている。
 それでも、既に変わる事など出来ないのだ。二人は世界によって未来を決められた。そこに自由は無い。その束縛の中で、何とか小さな安息を手にする事しか出来ないのだ。
 逃亡したとしても、何も変わらない。次に手に入れた場所で、また逃げたくなるだけだ。正面切ってこの未来と戦ってさえいない自分が、逃げ出そうだなんて甘かったのだ。そうして今のこの状況。逃亡に、意味は無かった。
 アンジェリークはロザリアの隣に屈みこむと、一言、ようやく告げたのだった。
「ロザリア、ごめんね……」
 許しがもらえるのなら、今度は逃げずに戦うから。



 それからは数日、慌しい日が続いた。女王は戻ってきたとはいえ、補佐官や守護聖の信頼を全て失ってからの再スタートである。逃げ出す前より困難とも言えたが、それでもアンジェリークはもう弱音を吐かなかった。そこには僅かながら、女王としての尊厳が見え始めていた。
 ルヴァの後任の守護聖は探し出している途中だ。だが守護聖交代を待たずしてルヴァは今日、聖地を下る。アンジェリークと共に逃亡をはかった罪として、主星ではない惑星に下る事が決定された。元守護聖である人物が主星で暮らせないというのは、思い切った罰だった。表向きは、地の守護聖ルヴァが女王を唆したという事になり、アンジェリークは猛反対したけれど、ルヴァ自身が罪を被るという事で彼が納得したらしい。
 罪には罰が必要よ、とロザリアは囁いていた。アンジェリークの分の罪も全て引き受けて、今彼は聖地の援助無しに下ろうとしている。真実は全て葬られようとしている。
 ほんの数分だけ、ルヴァと二人きりで話す事が認められて。アンジェリークは宮殿を抜け出すと、今にも星の小途に乗ろうとするルヴァを引き止めた。
「ルヴァ!」
 ひとりきりで聖地を下りるものと思っていたらしい彼は、随分と驚いた。
「陛下……。大丈夫なのですか、宮殿を抜け出したりして」
「勿論、ロザリアから許可をもらってる。……私の行動、分刻みで、しかも全部ロザリアの思うままなのよ、嫌になっちゃう」
 言葉ほどには嫌そうでなく、むしろ微笑みさえ浮かべるアンジェリーク。それを眩しそうな顔で見つめて、ルヴァは寂しそうに笑った。
「どこから、間違ったんでしょうね……。やっぱり、私があなたを女王にしたのが、全ての責任ですね」
「それは、違うわ。きっと、なるべくしてなったのよ。史上最悪の女王になって、私の過去は名を馳せるわ。……後世の女王の役に立つわね、こんな普通の人でも女王になって、苦しんで逃げ出した事があるんだって知れば、きっとみんな少しは安心するでしょ」
「あなたは、短い間に随分強くなったのですね」
「強くなんか、ないわ」
「私は弱いので、あなたの強さが眩しく写るんですよ」
 ルヴァはここで、掌を差し出した。朝焼けの中で見たのと、同じ掌。
 意味が分からずに見上げると、ひどく真剣な瞳とぶつかった。
「私と一緒に逃げて、くれませんか。あなたが望んだ通り、全てを捨てて」
 思いがけない告白に、目を見開いた。
 逃げようと思えば逃げられる。再びあの逃亡の日々の中に身を投じるのも、きっと悪くは無い。けれどそこに答えは無い。救いも無い。アンジェリークの欲しいものは、そこには無い。
 どんなに、ルヴァと行く事が魅力的でも。二人の道は、既に別たれている。これが、候補である頃なら、また違う答えを返しただろうけれど。
 ルヴァの告白は思い切ったものだったが、アンジェリークは迷わなかった。
「もう、逃げないわ。このまま二度と会えなくても。このまま二度と2人の道が交錯しなくても、私は聖地に留まるわ。だってそれが、あなたの、そして私の罰なのだから」
 聖地の加護無しに生きる事になる。それが彼の罰。
 愛した人とは二度と会えない事になる。それが、自分への罰だ。
 ロザリアの言葉が舞い戻ってきた気がした。確かに罪には罰が必要なのだ。
 ルヴァは、やっぱりそう仰いますか、と苦笑した。
「多分あなたなら、そう言うんじゃないかと思ってました。……訊いてみた、だけですよ」
 相変わらず、嘘は下手だった。
 握手を求めるために、アンジェリークは手を差し出した。
「……元気で」
「あなたも、……どうかいつまでもあなたの治世が穏やかなものである事を」
「ありがとう。私、忘れないから。あなたと一緒に過ごした、あの逃亡を」
「私も……忘れたくても、忘れられませんから」

 最後に笑顔で交わした握手。
 握った掌は、やっぱり温かかった。


おしまい


■あとがき
ここまで読んで下さってありがとうございました。
私の好きなものを山盛りいっぱい詰め込んだ(逃亡とか、やたら張り手とか)小説でした。
最初のアンジェは痛い子で共感しにくいとも思われますが、きっと本編終わったあとのアンジェは立派になると信じています。
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