逃亡者たち・6


 ルヴァが、こくりとひとつ喉を鳴らした。深夜の狭い客室の中に、それは静かに拡散した。
「え?」
 訊ね返す。アンジェリークには意味が伝わらなかった。もう一度確かめるようにゆっくりとルヴァは同じ言葉を繰り返した。
「私のサクリアは、もはや尽きようとしています」
「……本当なの」
 守護聖退任。だからだったの、とアンジェリークは問うた。
「気分悪そうだったのも。……オスカーのサクリアを感じ取れると言ってたわね」
「はい。あれも、私の中からサクリアが消失していく事による作用です。他人からのサクリアの輝きに敏感に反応してしまうようです」
「まさかこのタイミングで」
 心拍数が、上がった。
 本来ならば聖地に戻って後任の守護聖のために特別な任務が彼に与えられるところだ。アンジェリーク自身ルヴァが守護聖を終える事を知らなかったのだから、他の人間が知る由も無い。戻れば、新たな守護聖を探す事になるだろう。その手続きさえ、今は成っていない。喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
 女王の無い聖地。まもなく守護聖のひとりすら欠ける。宇宙の存亡の危機と言っていい。滅びればよい。贋物と本物の区別さえつかぬ、こんな世界など。そう願う一方で、どこかでアンジェリークは焦りを覚えた。
「陛下。お話しなければならない事は、それだけではありません」
「あとは、何が残っているの」
「それを話す前に約束していただけませんか。私が真実を話す時、あなたもまた真実のみを語ると」
「……いいわ」
 ルヴァは束の間目を閉じて、どう言ったものか思案した。
 出たのは、もう一度アンジェリークを驚かせるのに足る発言だった。
「あの時、あの逃亡が始まった夜に私があなたと出会ったのは、偶然ではありません」
「張っていたって事。……どうして分かってたの、私がいなくなるって」
「知ってます。あなたを女王にしたのは、私ですから。あなたには退屈な世界であると分かっていて、私はあなたを王座に追い込んだのです」
 それは知っている。アンジェリークに頼まれもしないのにサクリアを送り、彼女を女王にした人物がいるという話は。女王になってから、噂で聞いた。調べてみればルヴァだった。それだけの事だ。しかし王座に追い込んだという発言は聞き捨てならない。
 ルヴァとしては、アンジェリークの方が女王として相応しいと思っていたのかもしれないが、とんだ見当違いというものだった。
「女王に何か、なりたくなかったわ。追い込んだ、なんて正にぴったりの表現ね」
「ロザリアが女王に選ばれたとしたら、あなたはどうしてましたか? ……女王補佐官に?」
「まさか。家に帰っていたわよ」
「……やっぱり。私の予測は正しかったのですね」
「……どういう意味?」
 ルヴァは質問には答えず、どこか遠い所を眺めたまま先を続けた。
「女王の責務は、あなたには耐え切れないだろうと踏んでいました。逃げる数日前から、あなたの挙動が不審だったのには気付いていました。そろそろだろう、と思って外にいれば、当たったというわけです。……まさか一緒に逃げる事になるとは、思いませんでしたけど」
「……まさか」
「あの時は、自分でもどうするつもりなのか分かっていませんでした。でも、今なら言えます。きっと私は、あなたと一緒に逃げるつもりだったんじゃないかと思うんです」
「ふざけないでよ!」
 客室の中に、ひときわ高い声が響いた。
「そうよ、私、ずっとあなたを憎んでた。私を女王にしてくれた、あなたを憎んでも憎みきれなかった!」
「それならどうして、候補の時に何度も私を訪ねて来たんです。どうして私を、勘違いさせるような真似をしたんです」
 かっ、と羞恥に顔が熱くなった。今更、そちらに話を持っていくのか。
「……っ」
「あなたが来て、私は少し勘違いしたんです。……あなたが執務室に来てくれる度、私はとても嬉しかった」
「そうよ! 私は確かにあなたが好きだったわ、……でもそれはほんのひとときだと分かっていたから好きだったの、届かないから単純に好きだと思えたのよ!」
「なら、私はどうすればよかったんです!」
 思いがけないルヴァの激しい主張。言葉がつと止まった。
 こんなルヴァは、今までに見た事が無い。
「あなたの笑顔が好きでした。躊躇い無く優しくしてくれるあなたが好きでした。あなたが地上に戻ってしまうのなんて、私には耐えられなかったんです! あなたは女王補佐官にはならないでしょう、それは分かってました、……あなたを聖地に留まらせるには、私にはこれしか方法が取れなかったのです」
 がつん、と頭を殴られた気がしてアンジェリークはよろけた。痛くなんてないのに、痛くて仕方ないのだ。
 だからあなたを女王にしたのです。ルヴァの言葉は締めくくられた。だからエリューシオンに、毎夜過剰な地のサクリアを与えて。誰もが気付いていたけれど、ルヴァは誰の忠告にも耳を貸さなかった。
例え想いが叶わなくとも、彼女が女王になりさえすれば永遠だ。憎まれても、傍にいる事が出来る。アンジェリークを彼女の家族の元に返す事だけは、ルヴァとしては有り得なかったのだ。ルヴァとしては、何も感じてもらえないくらいなら、憎まれた方が幸せだった。
 憎悪は膨れ上がる。炎を灯したアンジェリークの瞳に、ルヴァは満足を覚えたものだった。
 知らなかったのはフェリシアの育成でそれどころではなかったロザリアと、エリューシオンの育成状況など気にも留めなかったアンジェリークだけだった。
 そうだ、気付かなかった、まるで。この人の、自分への想いなんてまるで知らずにいた。あの時は知らずにいたけれど、二人は想い合う仲だったのだ。
 今頃気付いた。遅すぎた。全ては間に合わなかったのだ。
「私たち、馬鹿ね……?」
 全てを怨んできた女王と、勇気の無い守護聖の組み合わせは、滑稽な程ぴったりに思えた。
 ひとりは役目を憎んだ。そこへ追いやった人物が本当に好きだったからこそ、裏切られたようで余計に憎かった。ひとりは役目を利用した。想いを告げるだけの勇気を持たなかったひとりは、違う手段で彼女とともにいる未来を選択した。
 今更、と呟いた。今更通じ合えても、遅すぎる。
「あなたの優しい目が、好きだったの……」
「私も、です」
 アンジェリークはひたひたとルヴァに歩み寄ると、その隣に座った。
「全部……、話して……?」
「全部、とは?」
「今まであった事、全部。もう、隠すのも騙すのも嘘を吐くのも、終わりよ。……」
 欲しいのは思い出。抱えて生きられるだけの。
 思いをどちらも告げられずに、断られるかもしれないという恐怖から逃げていた。それは弱さだ。ルヴァはアンジェリークに。アンジェリークはルヴァと、……そしてロザリアに。言いたい事ばかりが詰まっても、口にしなければ何も伝わらない。喉の奥にあるばかりでは、それは用を為さないのだ。
 ルヴァがアンジェリークに思いを告げられずにこういう事態を引き起こしたのなら、同じ事が自分にも言えた。正面からロザリアと意見を交換した事があっただろうか。不平不満を溜めていた。ロザリアも、きっとそれには感づいていた。けれどお互い知らぬ振りをしていた。真実を知るのが怖かったから。
 もう、怖さを恐れるのはやめよう。逃げても、前には進めないのだ。
 自分の立場が間違いでも。今更どうにもならない。自分は交代の時期が訪れるまで、やはり女王として生きるしかないのだ。それは苦痛でしかない。分かっている。それなら変えようと努力すればいい。変えようともしないで逃げ出した自分には、責任と罪がある。
 アンジェリークはきっと前方を見据えた。
「明朝に。……帰るわ。聖地に」
 あなたも一緒に。帰るのよ。


つづく


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