夜の帳の中、怪人は目を覚ます(1)


 ずっと昔、子供の頃から不思議に思っていた事がある。
 この世は8つのサクリアによって支えられている。光と闇、水と炎、緑と夢と風によって。それらのサクリアを女王は大地に降らせ、この宇宙を安定へと導いているのだ。しかしながら。何かが足りなくはないだろうか? 幼心にも、アンジェリークの疑問は真剣だった。
「それなら、だいちはなにでできてるの?」
 人間や環境の源はサクリアによって作られている。それは分かった。しかし、それを受け止める器、つまり大地や惑星は何によって作られているのだろう。父や母に質問すると、いつも決まって彼等はこう答えるのだった。
「この大地はね、元からあったものなんだよ。だからそのものを作る必要は無いの。分かった?」
 大人たちにも、どうやら分からないというのが本当のところのようだった。それ以上は質問させないで、「困った事を訊く子に育ってしまったよ」と苦笑する両親を見て、不思議に思ったものだった。大人たちを困らせるだけの質問。訊かない方がいいという事しか分からなかった。
 今も尚、その疑問は生きていて。
 今年17歳になったアンジェリーク・リモージュは女王候補として飛空都市へと向かう事になった。

 そして、今日で試験が始まって60日目の夜である。
 そろそろ飛空都市での生活も慣れてきたという頃、アンジェリークはライバルにして同じ女王候補のロザリア・デ・カタルヘナと部屋で紅茶を飲んでゆっくりと過ごしていた。
 たまに顔を見せるかと思えば、ライバルのくせして小言ばかり言うのが玉に瑕の彼女だ。ありがたいと思うべきなのだろうが、今のところ大差をつけて負けている上に母親からの鬱陶しい視線から逃れられたと思ったら次の母親が来たようで、少しやりにくい。
 案の定、カップをソーサーへと戻したロザリアは目をきらりと光らせた。これから説教するぞ、という意気込みが垣間見える。
「あまり夜にまで出歩くものじゃないわ、アンジェリーク」
 今日の話題は、どうやら夜遅くまでアンジェリークが図書館に篭っている事への説教のようだ。ゼフェルと一緒にこっそりと悪戯をしかけた事は未だばれてはいないらしい。少しほっとする。
「うん、分かってる。でも…ロザリアに先越されてるんだもの。負けたくないから、私ももっと勉強しなきゃいけないの。…図書館に篭ってるとあっという間に時間が過ぎちゃうのよねえ」
「よしなさい。噂を知らないの?」
「噂?」
 テーブルを挟んで、ロザリアがずいと身を乗り出した。これでは何か秘密を明かすしぐさのようだった。
「飛空都市には怪人が住むっていう。夜になると出てきて飛空都市を彷徨うそうよ」
「ふーん。面白そうだね」
「面白くなんか無いわよ…っ、彷徨うのよ?! 怪人が?!」
 慌てふためくロザリア。ひょっとして…これは。口の端ににやりと笑みを浮かべると、ロザリアは「何がおかしいの!」と怒った。
「怪談怖いの?」
「こっ、怖くなんてなくってよ」
「じゃあ、大丈夫よ。彷徨うだけなんでしょ?」
「それは…そうでしょうけど」
「私は、むしろ会ってみたい気がするけどな。そしたら、私の疑問も解けるかもしれないし」
「疑問?」
「そう。何でサクリアの力は8種しかないのかって事」
「ああ、前にも言っていたわね…そんなに不思議なの? わたくしにはそうは思えないわ。考えすぎなんじゃなくて? 確か、地のサクリアがなきゃいけない筈だとか言ってたわね」
「うん。サクリアの力を受ける筈の大地がサクリアによって作られないというのは変よ。最初は、緑のサクリアがその分を受け持つのだと思って納得してみようと思ったの。でもやっぱり納得出来なくて。だって、大地には緑以外の場所だってあるじゃない? …それならゼフェル様の住んでた所にはサクリアは行き届かないって事になるじゃない」
 もやもやと、子供の時から感じていた疑問は、この年になっても消えないままだった。頭がそれほど良くない自分では、考える度に脳が沸騰しそうだが。
「緑が無いからこそサクリアの供給が為されるのではなくて?」
「じゃあ緑溢れる豊かな大地には、サクリアは与えられないの? …それも変よ」
 考え込むアンジェリークを尻目に、ロザリアはふんと鼻を鳴らした。
「おかしな子ね。難しい事を考えて、そのおつむで沸騰しても知らないわよ」
「…もう、してる」
 ロザリアに、うんと笑われて。
 アンジェリークは「ロザリアなんか嫌いっ」とむくれたが、すぐにつられて笑うのだった。

 既に日暮れを通り越した時間帯。女官たちが揃って聖殿に明かりを灯し始める頃、アンジェリークはまだ図書館に篭っていた。育成においてロザリアにさらに大差をつけられている。あれ程才能に恵まれた美少女に自分が敵うとも思えないが、だからといって簡単に引き下がるのも嫌だった。たくさんの資料に囲まれて呼吸困難になりそうで、ぷはっと息を吐いた。引き下がるのも嫌だけれど、資料とのにらめっこもそろそろうんざりしてきた。
「あ…、もうこんな時間なのね」
 図書館から見える景色は、既に暗黒のみだった。飛空都市にはそもそも明かりが乏しい。夜になれば、アンジェリークが体験した事もない暗がりしかそこには存在しないのだ。慌てて鞄を引っ掴むと彼女は図書館を飛び出した。そろそろ閉館時間も迫っている。最悪、ロザリアにまた小言を言われるかもしれない。図書館から聖殿出口までは一直線である。それでも、見通せない程の高さのある天井や蝋燭だけの明かりが心細かった。こんな時間まで図書館にいるものじゃない、と後悔したが、無論あとの祭。響く足音。自分のなのに、誰かが追いかけてきているようにしか思えなかった。
 ようやく聖殿の出口にまで辿り着くと、既に外には星が確認できた。ちらちらと瞬く星々。そういえば、と今になって空腹を覚えた。夕飯の時間はとっくに過ぎていた。
 急ぎ足で部屋へ戻ろうと、足をそちらに向けた時。星の所為ではない明かりが目に入り、ぎょっとした。
 方向で言えば、森の湖。普段立ち入る所でもなければ、明かりを必要とする場所でもない。なぜそんな場所から光が漏れてくるのか。答えはひとつ、そこに誰かいるのだ。瞬時にぞっとした。ふいにロザリアの言葉を思い出す。
<ここには怪人がいるのよ>
 …本当に怪人は存在したのだ。橙色に淡く光る明かり。
 なぜだか、目を逸らせなかった。自分の部屋へと向いていた筈の足は、気付けば森の湖へと向かって歩き出していた。怖い。とても怖い。なのに、足元を止められなかった。本当に怪人であるなら、…自分はどうするだろう?
 訊きたい事がある。世界の理について。おそらく、その答えを知っているのは怪人だけだ。恐怖心より好奇心が簡単に勝って、アンジェリークは足早に森の湖へと向かった。

 次第に大きくなる橙色の明かりが、その存在を濃くさせた。


つづく


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