夜の帳の中、怪人は目を覚ます(2)


 足音を立てないように最新の注意を払いながら、木の陰から明かりの中心をそっと窺う。
 男がいた。小さなランタンひとつで本を読んでいる、青い髪の男。ただでさえ夜の闇の中、読みづらそうなのにさらに男は仮面をつけていた。ランタンの光だけでもはっきりと分かる、顔の右半分を覆った白い仮面。能面のように見えた。
 アンジェリークは瞳を逸らせなかった。ロザリアが言っていた通りだった、その通りの怪人を見てしまった、という思いと、怪人というわりには穏やかな雰囲気を持つ彼に不思議な気持ちを抱いていた。彼を見たからといって、恐怖心など微塵も起こらない。名前程のインパクトは無いというのが正直なところだった。肩透かしを食らったと言ってもいい。
 そうして彼をじっと見つめるうちに、ここにいたらいけないという気持ちが湧き上がってきた。どんな事情があるにせよ、暗闇の中で本を読む男、という状況は普通ではない。混乱する頭の中で、それだけは分かった。一歩だけ引き下がった時、足元の枯葉が音をかさりと立てた。まずい。冷たい汗が背中を伝った。勿論、敏感そうな怪人は不審な音を聞き逃さなかった。
「誰です?!」
 冷静さを欠いた、慌てた様子の声が聞こえてきた。このまま逃げるより、面と向かった方が懸命だと判断し、アンジェリークは木の陰から正体を現すと怪人に歩み寄った。
「…ごめんなさい…読書の、邪魔して」
 異常な剣幕で詰られる事を想像して、ぎゅっと目を瞑った。しかし何も訪れない。目を見開いて見れば、そこにいたのはきょとんとした怪人の姿だった。仮面の恐ろしさに反して、やはり随分静かそうな印象だ。
 怪人はしばらくきょとんとしてから、何に気付いたのか急いで掌で仮面を覆ってみせた。
「…ご、ごめんなさい。仮面、なんて」
「え?」
 アンジェリークには彼の意味する所が分からない。仮面なら、何だと言うのか。怪人はアンジェリークをおいてひとりで喋っている。その様子は次第に尋常ではなくなってきていた。仮面を隠した右手が、ぶるぶると震えていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
 怪人は後退すると、アンジェリークの機嫌を伺うようにじっと目を見つめるのだった。その視線の中にあるのは純粋な恐怖。片目だけ、で。白い仮面の中の瞳は暗がりの向こうで、アンジェリークには見えなかった。
「ごめんなさい。謝るから、だから、打たないで」
「…誰もあなたの事、打ってないわ」
 どうしていいのか分からず、とりあえず事実をありのまま告げる。途端に訪れる、水を打ったような静寂。彼はアンジェリークの発言によってようやく正気にかえったのか、片方だけ確認できる瞳に光が宿った。
 滝の流れ落ちる音ばかりが響く。
「すみません。…混乱してしまって」
 おどおどと頭を垂れた。仮面をつけた見た目の恐ろしさとは裏腹に、中味はどちらかというと些細な事で怯えて震える小動物のようだった。
「すみません」
 怪人はもう一度そう謝罪すると、ばっと森の奥へと駆け込んでしまった。アンジェリークが止める暇も無い。彼が抱えたランタンの光は、あっという間に小さくなって確認出来なくなった。
 森の向こうはジュリアスやディアなどから奥に立ち入る事を固く禁じられている事を、ふと思い出した。組織ぐるみでの仮面の男、あるいは怪人という人物に関する情報の隠蔽。そんな事を思った。怪人の駆け込んだ先は、自分には入る事が出来ない。
 ランプの光無しでは、星の光がよく見えた。空を仰ぎ見て、アンジェリークは深く溜め息を付いた。付くしか、無かった。あんな特殊な人に出会ってしまったのなら。
「一体、何だったのかしら…」
 ここには顔の半分を白い仮面で隠した怪人がいる。流れるその噂は、本当だった。
 アンジェリークに理解出来たのは、それだけだった。

 次の日も、アンジェリークはなぜだかあの怪人がひどく気がかりで、つと足を森の湖へと向けた。危うい存在に思える怪人を、放っておけなかった。怪人はあくまでも人間として生きているのであって、ロザリアの主張するところの幽霊じみた存在では無かった事が、アンジェリークの記憶の中に留まっているのだった。
 どうして怪人が仮面をつけているのか。どうして、森の湖に現れるのか。それは分からない。分からなくても、アンジェリークには自分に出来る事が有るように思えた。
 昼ではなく、十分に日が沈み夜になったのを確認してからアンジェリークは森の湖へ向かった。彼が仮面を付けている時点でアンジェリークに推測できる事がある。きっと昼間には、彼は姿を現さない。顔を見られたくないのであれば、彼は夜にのみ出現するだろう。
 果たして、そこに彼はいた。昨日と同じ、白い仮面を付けた怪人はアンジェリークが現れたのに気付くと、すぐに2、3歩歩み寄った。
「昨日は、すみませんでした」
 軽く会釈してみせる。
 今度は昨日よりはずっと冷静だ。また混乱されたらどうしようと案じていた分、ほっとして、アンジェリークは口を開けた。
「いえ…少しびっくりしたけれど、大丈夫です。あの…お尋ねしても良いでしょうか?」
「ええ」
 こうしてみると、彼は思うよりもずっと穏やかな印象の男だった。何という事も無い。昨日の彼は、偶然調子が悪かったのに過ぎないのだろう。
「あなたは一体」
「…怪人です」
 自分で自分の事を怪人と称する事は、無いだろう。本名を言いたくないのだと察し、アンジェリークは話題を摩り替えた。
「私はアンジェリーク。アンジェリーク・リモージュって言うの」
「…アンジェリーク」
 慣れない名前にまごついて、一度だけ怪人はその名を呼んだ。こわごわと、壊れ易いものに触れているかのように、そっと。
「はい」
 にっこり微笑んでそれに応えると、怪人は目に見えておたおたした。
「あなたは不思議な人ですね。…仮面が、怖くないんですか」
「怖くないわ。だって、あなたは人間だもの」
 飛空都市に生きる怪人ではなく、闇に紛れ恐怖に打ち負かされている人間なのだから。
 怪人はしばし遠いものを見るかのような視線でアンジェリークを眺めていたが、つられて困ったように微笑んだ。
「噂で聞いた事があったわ。飛空都市には怪人だとか幽霊だとかが住むって。でもあなたは人間よ。怖くないわ」
 半分だけの微笑み。白い仮面に隠された残り半分を想像しながら、アンジェリークはふと気付いた。ランプの揺れる光だけでは判別し難いが、この男、随分と整った顔立ちをしている。美青年と言う程では無いにせよ、何となくほっとする顔をしている。
「…あの。アンジェリーク?」
「なあに?」
「また、ここに、来てくれますか?」
 彼なりの、精一杯の誘いと見て取れた。安心させるために、彼の手に優しく触れた。途端にびくつく怪人。人に触れるのも、触れられるのにも慣れていないらしい。
「私の事なら怖くないから。この熱は怖い?」
「いいえ、ちっとも。…なぜだか」
「大丈夫。…また来るから」
 きっと、明日も。


つづく


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