夜の帳の中、怪人は目を覚ます(最終話)


 降り立った場所は乾いた風の吹く大地だった。なるほど、緑は無い。いつか図鑑で見た通りの世界が広がっていた。アンジェリークはもう一度フードを深く被り直すと空を仰いだ。
 主星の空より少し薄い色。砂塵混じりの空気は乾ききって、涙さえ吸収してしまいそうだった。
「来たよ、ここまで。あなたとの、約束を果たしに」
 目を、瞑った。今でもなお、あの人の姿は克明に捉える事が出来た。彼の事について今更ながら色々と調べたけれど、さすがに存在自体を消されてからの年月が長すぎて欲しい情報が見当たらず、砂漠の星の出身という事しか、結局分からなかった。だから勘だけで、とりあえず砂漠の星に降りてみた。あくまでもここは彼の故郷に似た場所なのであり、故郷そのものではないのは自明の事だ。
 砂漠特有の湿度の低い唸るような風に混じって、誰かの声が聞こえてくるような気がしてアンジェリークは耳を済ませた。

 砂の星で、あなたと出会いたかった。守護聖、と、女王候補、と、してではなく。
 
 無論幻聴だ。
 怪人の声は今尚アンジェリークの耳の中に響き続けている。この声、或いは導きに従いこんな砂漠までやってきた。ここまで来てどうするつもりなのか、自分でも見えていなかった。あの人の生きていたかもしれない大地を、同じように踏みしめてみたかったのかもしれない。存在の欠片を感じ取る事で、その彼の言葉を叶えてあげたいのかもしれない。しばらくそうして突っ立っていたが、そろそろ移動を開始しようと荷物を担いだ。
 最初の予定としては、ここ、つまり街の中心地から南に歩いて巨大なオアシスに辿り着く事だった。あの人はいつだって森の湖にいた。約束が果たされるならば、水場しか考えられない。
 さくさくと鳴る足元の砂を踏みしめる。ここはアンジェリークが図鑑でしか知らなかった世界だ。このような過酷な環境で生きてきた怪人の事を思った。暮らしぶりだって、きっと楽では無かったに違いない。彼にとっては二重の意味での苦難の生活だったのではないかと推測出来た。
 今頃になって思うのは、ひょっとしてこれで良かったのではないかという事だ。方法は違えど、彼は自由の身になれた。もう彼は苦しまずに済んだのだ。そして最後の最後に、彼は彼自身のために願いを叶えた。他の誰かの命令だからでなく、自分が望んだ事としてその願いを叶えに行った。それはきっと、いい事なのだと思いたい。ひとり残されたアンジェリークとしては、そんなふうに考えて自分を勇気付けるより他に方法は無い。結局彼の願いは叶う事は無かったけれど、アンジェリークは彼のいない宇宙の女王にはなろうとはちっとも思えなかった。
 オアシスに着くと、おもむろにアンジェリークは鞄の中から白い仮面を取り出して砂の中に埋めた。熱い砂粒に、指先が火傷を起こしかけているのも構わずに、土を掘り返しそこに仮面を埋めた。極限まで乾いた砂は指に絡みさえしない。しっかりと、二度と掘り返されないように埋める。白い仮面は徐々に砂に隠されていく。まるで誰か他の人が作業しているかのような面持ちで、その作業を繰り返しアンジェリークは続けた。
 飛空都市から持ち出せたのはこの仮面ひとつきりだった。死体ですら持ち出しを許されなかったというのは反抗を覚えるところだが、いる筈の無い人間が死体だけ出て行くわけにも行かないのだろう。怪人の死によって安定した宇宙は、一体誰が治めるのだろう。ふとそんな事を思った。今までのようにあの女王が統治し続けるのか。或いは本当にロザリアなのか。いずれにしろアンジェリークを含めたあの場にいた全員が秘密を墓まで抱えていく。
 アンジェリークはというと、女王の座どころか、女王試験を一方的に破棄し飛空都市から逃亡した自分には主星に帰られない身の上となった。今更おめおめと実家に帰られるわけはない。それでも後悔は無い。アンジェリークに誰も寄ってこない事を考えるに、どうやら自分は生かされているらしかった。既にこの世にいない者についてどのように暴露しても誰も正気とは取らないだろうという事と、それからアンジェリークが喋ったりなどしないという事が認められたのだろう。浮ついた心で怪人に近付いたわけではないのだから、そう理解してもらえて不愉快でありかつ愉快だった。
 すっかり仮面を埋め終えると、本当に終わったのだ、と変に感慨深い気持ちになった。結果として仮面しか飛空都市から出られなかったとしても、彼の欠片は故郷に似た世界に戻れて、なおかつ太陽が眩しく輝く世界にこれからはいられるのだ。仮面は塵となっても、永遠に。
 地上に遍く降り注ぐその太陽が不快で、アンジェリークは目を細めた。じりじりと何もかもを焼き尽くす、光線。肌が乾いていくのを覚えた。黒いフードを目深にかぶってなお、照りつける太陽は肌を焼き焦がす。
「ここは私には、眩しすぎるわ…」
 それでもきっと、彼にはこの眩しい太陽こそが救いである。



 オアシスからの帰り道、街の外れまで辿り着いたところで、その辺りをうろうろしては声高に何かを主張している青年に話し掛けられた。
「もし…そこのあなた!」
「え?」
 向き直る。そこにいたのは、青い髪の、どことなくぼんやりした印象の青年だった。こざっぱりとまとめた外観からして、浮浪者ではないと推測する。それにその目。知性ある、理知的な眼差しにアンジェリークは吸い込まれていた。澄んだ灰の瞳。初めて見る種類の目だ。一見して高い教育を受けた者の目だ。彼が頭にターバンを巻いているのは、ここの風習だと聞いた。仮面を外してターバンを着けたあの人はこんな感じだろうかと夢想する。
「…あの、あなた、旅行者ですよね?」
「え? …ええ」
「これから砂嵐が来ます。出来るだけ早く家に戻って下さいね」
 家じゃなくて、宿。そう突っ込みかけて、青年は自分の失態に気付いたらしく苦笑した。
「違いますね、ええと、宿ですね。すみません、どうもぼんやりしてて。なるべく早く宿に戻って、しっかり窓閉めて下さいねー。危険ですから」
 頭の回転の早そうな涼しげな目元とは裏腹に、喋り方や思考は随分とのんびりした人だ。思わず口元に笑みが浮かんだ。それをどういう意味で取ったのか、青年は「分かりましたか?」と念押ししてくる。
「これからどこか外に行っちゃだめですよ? まっすぐ宿に帰るんですよー? 寄り道してはいけませんからね。この辺の旅行者はまだいいだろうといつまでもあちこちふらふらして嵐に巻き込まれるケースが多いんです。私のような地元民は慣れているので大丈夫ですが、あなたのような…その、かよわい女性が怪我でもしたら大変ですから。お土産屋さんも、もうちょっとしたらきっと閉まっちゃいますからねー、嵐はすぐに止むので一旦帰った方が宜しいかと思いますよ。大丈夫ですよ、お土産はそう簡単に売切れたりしませんから。そうそう、お土産と言えばお嬢さん、もしやアレは買われてませんよね? いや、名物に美味い物無しとはよく言ったもので」
 この青年は一体いつまで話し続けるつもりなのだろう。アンジェリークが困惑している事にも気付かず、延々と青年は話し続けてついには激しく脱線し始めている。今はその名産品がいかに不味いかの話で勝手に盛り上がっている。砂嵐が来るのではないのか、とどこで話を遮っていいものか分からず、困り果てて空を見上げた。言われて見れば先程見た狂いそうになるほどの快晴はどこかに行ってしまっている。この青年の言う通り、そうそうに宿に退散した方がいいだろう。
 青年はまだ話し続けている。余程講釈好きとみえる。土産の話をしていた筈が、巡り巡って今はまた砂嵐の話題に戻ってきていた。話の腰を折りにくいと感じるのは、その優しげな目元の所為か。穏やかな口ぶりや落ち着いているように見える人柄の所為か。同じ砂漠の民といっても、色々な人がいるのだ。…
「砂嵐はそう長い時間ここいらに留まっているわけではありません。ですからねー、もし何か早急に欲しいものがあったとしてもそう慌てる必要は…」
 また話が振り出しに戻っている。慌ててアンジェリークは手を振ると、気乗りしないながらも何とか話を遮った。
「いえ、どこへも行きません。約束は果たされたので」
「約束…?」
「ええ。実は私、観光客ではありますが、ここに来たのは単に旅行するためではないんです」
「…というと?」
 にこ、と意味深に微笑んで見せた。この意味が、今はきょとんとしているこのとぼけた雰囲気の青年に伝わらなくとも良い。そう、きっと約束は果たされているのだから。
 風でフードがふぁ、と揺れた。まもなく嵐がやって来る。浮かんだフードのてっぺんを無理矢理押さえつける。ふいに閉じた目の裏に、あの人の姿が一瞬見えた。
 あの人だ。そう、自然に思えた。
 目を閉じたまま、アンジェリークは微笑みかけて。彼に、伝えた。

「大事な人に、会いに来たんです」


おしまい


■あとがき
ここまでお付き合いありがとうございました。お疲れ様でした。
この長編の世界には生まれ変わり・輪廻転生などといった思想は無いし、またそういった現象もこの世界では確認されていません。
彼は彼の人生を精一杯生きました。これ以上やり直す必要はどこにもないのです。
BGM・「閉幕」(「戦国無双2サウンドトラック」より)
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