夜の帳の中、怪人は目を覚ます(12)


 背中から勢いよく地面に激突した怪人は、それでも意識を失わずに空中を眺めていた。慌ててアンジェリークは駆け寄るが、その身に何も残っていない事は見て取れた。息が止まるのも、時間の問題だ。全ての力を出し尽くした結果、この世界が全てのサクリアで満たされていくのが分かった。命を賭して世界を安定させたのだ。
 アンジェリークははっきりと感じ取っていた。怪人の祈りはもはや完了している。世界は今、全くの調和の中にある。
 アンジェリークは倒れる彼の横に座り込み、彼の体を何度も揺さぶった。
「どうして! どうして、どうしてよッ!」
「アンジェリーク…あなたなのですね。…最後にあなたに会えて、良かった」
 既に正気さえ無い怪人には、今のアンジェリークの悲痛ささえ届かない。
「だめよ! 目を閉じちゃだめ! 一緒に、ここで、太陽を見るって言ったじゃない!」
 叫びは彼には届かない。空ろな目。ここを見ているようで、すり抜ける視線。それには気づかない振りをして、アンジェリークは強く彼を揺さぶった。終わりだなんて、考えたくなかった。
「出来れば、故郷で…。砂の星で、あなたと出会いたかった。守護聖、と、女王候補、と、してではなく」
 欲しいのは叶わない願望ではない。アンジェリークは彼のそんな欲求を撥ね退けた。
「いやぁッ! だって私、あなたの名前もまだ知らないのに…!」
「…ルヴァ。ルヴァ、と」
 怪人は微笑む。思わず見入ってしまうほどに、優しい微笑み。それに思わず手を止めると、怪人は静かにアンジェリークの手に触れた。冷たい感触。
 怪人から肌に触れた事など、滅多に無いのに。
「こんな…私でも。無能…と謗られ続けた私でも、誰かの役に立つと思いたかった…。全てに絶望していた私が、前を見て誰かのために何かをしようと思えたのは、…あなたに出会えたからです」
「そんなの、そんなの…っ」
 怪人の目には涙が浮かび始めていた。
「あなたの願いは、…叶いましたか?」
「そんなの…叶えたって…あなたがいなきゃ、意味が無い!」
 その言葉に何か悟るものがあったのか、怪人の潤んだ瞳が見開かれた。
「…アンジェリーク…」
「だから、生きるって言って。私の隣で生きるって言ってよ、ルヴァ!」
「…ありがとう」
 答えは、はい、でもなくいいえ、でも無かった。
 怪人の手が伸びて、アンジェリークの頬を撫でた。するり、とひと撫で。
「…どうか、良い女王に」
 ゆっくりと怪人の腕が落ちてゆく。ぱたり、と音がして腕が地面に落ちた。目を閉じる、怪人。
 目は開かれない。
「嫌…嫌よ。こんなの嫌ッ! 目を開けて、ルヴァ…!」
 涙が頬を伝って、彼の仮面の上に落ちた。
 彼に、一体何をしてやれただろう。何が「ありがとう」なものか。何もしてあげられなかった。何も救いには。あれ程望んだ救いにはなれなかった。
 仮面。白い仮面。左半分には傷の無い顔。ならば仮面に隠された右半分には、彼の言うように醜さが詰まっているのだろうか。アンジェリークにはそうは思えなかった。アンジェリークの予測が正しければ…。アンジェリークはゆっくりと手を伸ばし、仮面に触れた。何の抵抗も無く、あっさりと仮面は剥がれ落ちた。
「…!」
 それを見た瞬間、アンジェリークは息を呑みがっくりと肩を落とした。やはり、そうだった。
「傷…なんてどこにも…」
 おそらくは。叔母に殴られる度に醜い、おぞましいと言われ続けてきた彼には、正常な判断力が欠けていたのだ。そこまで否定されれば鏡を見たところで醜いと思ってしまうだろう。彼の瞳にはそうとしか映らなかったのだ。自らを恥じた彼は仮面をつけるようになった。有りもしない醜さを隠すために。それが真実だ。
「傷なんてどこにも…無かったんじゃない…!」
 そこにあったのは、ただ。優しげな風貌の青年の姿だった。

 どれくらいそうしていただろうか。
 いつまでもルヴァの白い仮面を掴んだまま、どこか遠くを見つめ続けてきた。今にも目を開いて微笑みそうな彼が隣には横たわっている。だが、目覚めはしない。
 もう少しで一緒に太陽が見られる筈だった。正当な手順を踏んで女王になれれば、例え短い期間でも一緒に太陽のある世界に行けた筈だった。
 ふとそんな事を考えるのと同時に頭が正気を取り戻し、ぶわあと涙が溢れ出した。
「女王になってもいいと思ったのは、あなたがここにいたからよ…」
 そんな邪な考えを、この人はどう思うだろうか。特別な感情を持っている事を感づかれたら、この傷つき易い人は怯えるかもしれない。それが怖くて、とうとう言えなかった。
「私は…、あなたの事が…、」
 今更言って、何になる。アンジェリークは強くかぶりを振った。それに、後ろから近付いてくる人間たちの気配にも気が付いていた。ルヴァの事を放ってはおけないが、それよりまず片付けなければならない事がある。アンジェリークは他人に怪人の顔を見られないように彼の顔にそっとハンカチを掛けると、立ち上がった。ゆっくりと振り返ろうとする、そのアンジェリークの背中に躊躇いがちに声がかけられた。
「…アンジェリーク」
 見れば、女王陛下を筆頭とした、ロザリア、ディア、そしてジュリアスが立っていた。反怪人の勢力が揃い踏みしている事になる。
 アンジェリークは女王につかつかと歩み寄ると、突然に、盛大に打った。
「アンジェリーク?! 陛下に何を?!」
 ジュリアスが蒼白になって叫んだ。
「そうね、不敬罪だわ。それなら私を逮捕でも何でもしたら良いわ。だけどこんなの、あの人が受けた痛みに比べたら何でもない筈よ!」
 金切り声で喚くと、女王は打たれた頬を押さえつつも冷静に言葉を吐き出した。
「アンジェリーク。そなたは…真実を知らないのだ」
「真実って何ですか?! あなたが彼を打った事?!」
 更なる金切り声で叫んだ。心の内を、もう止めておけなかった。女王へと深い不審と欺瞞。
「私は、彼に暴力を振るった事など無い」
「嘘よ」
「そなたが信じる信じないは自由だ。しかし、私が手を上げた事は無い。おそらくは、彼は既に正気を失っていたのだ。女であれば全て彼にとっては恐怖の対象。…私とて拒絶された。彼には、女は全て彼の叔母と同じに見えたのだ」
「でも、彼は私を怖がらなかった」
「そう、それが最大の疑問だ。…なぜ彼はそなたを怖がらなかった。あまつさえ、深夜に人目を忍んで会うなどと、彼に出来る筈が無いのに」
「私には、分かるわ。…あなたは彼に初めて会った時、どういう態度を取った? 守護聖じゃない事にすぐ気付いたらしいけれど、それ以外にも何か印象を受けたんじゃないかしら? …白い仮面が不気味じゃなかったかしら? その仮面の向こうにあるものを聞かされて、気持ち悪いと密かに思ったんじゃないかしら? …彼には分かったのよ、あなたが気持ち悪いと思ってしまったのが。だから、彼はあなたを拒絶した」
「…そなたは怖くは無かったのか」
「怖くなんて無かった。…どうして暗闇の中で本を読んでいるのか、そっちの方がよっぽど怖かった。…どれだけ目が良くても、あんな所で本なんか読んだりしない。…多分。彼は誰かに救いを求めていたのよ。自分の事を怖がらないでいてくれる誰かを。罪を暴く強さをくれる人を見つけるために。…そのためにあんな事を毎夜してたんだわ。…彼は待ってたのよ」
 涙は全て流した筈だった。
「あの人の弱さは、罪じゃない…」
 守ってやれなかった。ずっと、気の遠くなるくらいずっと昔から、ただひとり誰でも良いから分かってほしくて救いのサインを出していたのに。アンジェリークが気付いたのは、少しばかり遅かった。
「これから、どうすれば良いのだ…代理であったルヴァさえも消え…、」
 迷い、ひとり呟く女王に、アンジェリークはひたと視線を向けて決意を表明した。
「陛下、ロザリアを新しい女王に。私は…女王にはなれません」
「アンジェリーク、何を?!」
「アンジェリーク・リモージュはここに女王試験の放棄を宣言致します」
 自分でも驚く程、さらりとその言葉が出てきた。彼を失った今、アンジェリークが聖地に残るだけの動機は無い。そして彼のおかげで気付かされた。たくさんの人間が死んでも彼ひとりの事でしか頭を悩ませられないような人間は、ここにいてはいけない。こんな自分は、やはり女王には相応しくなかったのだ。
 ただ、彼の隣で、女王になる未来を紡ぎたいだけだったのに。
「何ゆえそのような戯言を!」
「だって。私には、まだやるべき事がある…私、あの人との約束を守らなくちゃ」

 砂の星で、あなたと出会いたかった。守護聖、と、女王候補、と、してではなく。

 耳に届いた幻聴に、静かにアンジェリークは心の中で答えた。それなら、会いましょう。もっと違う形で。
 アンジェリークは前方をきっと見据えると、彼の白い仮面を手に力強く聖殿を飛び出した。
 女王たちの制止は、もう耳には届かなかった。


つづく


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