PIE JESU(1)


 結婚が決まった。
 無論自分、ユウリィ・アートレイデのだ。
 そろそろ26歳になるのだし、と人に強く勧められた見合いを行った上での結婚だった。なし崩し的の結婚といっていい。仲人は相手に強く出られると断りきれないユウリィの性格をよく把握している。
 そう、ユウリィは来月に結婚する。相手の男性は穏やかで理知的で、ユウリィによっては勿体無いと感じる程の、よく出来た男性である。古くからの知り合いであるジュードも、結婚が決まった時に喜んでくれた。
 結婚相手には好き、だとかいう感情よりも前に、この人となら上手くやっていけるだろう、というパートナーシップを感じている。それは恋愛感情ではない。相手も多分そうなのだと思う。
 この苗字を捨てるのだ。ユウリィは今も何処か呆然とした思いでその事実を遠くから見つめている。実感は無い。

 きっと、これで良かったのだと思う。

 このハリムにおいては結婚適齢期は随分と早く、成人を迎えるとともに結婚する人も少なくない。まだ発展途中にあるフロンティア ハリムには、何よりもまず働けるだけの頭数が必要なのだ。ゆえに結婚や出産を強く推奨しており、そんな中20代半ばを過ぎようとしてようやく結婚に踏み切ったユウリィは異色の存在と言える。
 何のためにこの年まで独身を貫いたのか。人に言えば、「そんな事で?」と返されるのが目に見えているため、ユウリィは今まで誰にも話した事は無かった。深い信頼を置いているジュードに対しても、そうであった。尤も、ジュードはこちらが何も言わなくても或いは気付いているのかもしれないが。
 一言で言えば、兄のためだった。
 だった。そんな過去形に、これからはなるのだ。
 ずっと、兄は帰ってくるのだと頑なに信じていた。だって、「先に行った」だけなのだから。ユウリィが毎日歩いているうちに、いつかは追いついて彼に届く日がやってくるのだと信じていたから。10年前、突然の別れ方をして以来、ぷつりと糸が切れたようにユウリィはただ盲目的に彼の生存を信じていた。考える事を、やめたのだ。考えたら負けだ。そんな事を、何処かで思っていた。正気で考えたら自分は認めてしまう。何を。ここには兄はいなくて、これから永久に現れたりはしないだろう事を。
 いつか兄が帰って来た時のために、ひとりきりで暮らしていたい。もしか兄が帰って来た時に、自分が既婚者であったらさぞかし兄は暮らしづらいと思うから。人と接する事に大きな欠陥のある兄の事だ、例えばハリムに在住する事になっても拠り所が無ければ生活しにくかろう。
 そのために、今まで独身を貫いてきた。だが。
 それも限界が来ていた。周囲の人の目もある。いつまでも独身でいれば色々な疑問の目が浮上する事は避けられない。小さなこのコミュニティにおいては、僅かな噂ひとつが致命傷になりかねない。この村にいられなくなってもいい、それでも兄を待っていたいと思える程の強情さを、ユウリィは兼ね備えていない。10年前と同じ気持ちでは、もう兄を待てないのだ。

 きっと、これで良かったのだと思う。

 ハリムに溶け込んで生きていくのには、これしか手段が無い。こうして結婚して、出産でもして、そうして死んでいく。
 10年前の、別れた直後ならばまた違う答えを用意するのだと思う。あの時はもう少し強引で向こう見ずな気持ちで、「何が何でも兄を待つ」と答えただろうと思う。10年前。突然の再会と別れ。ユウリィの兄・クルースニク。ユウリィにとっては輝く道しるべである人。もう絶対に、この人だけは何があっても失わせないと願った人。
 彼の意志は清廉で、ユウリィより9つも上だと思えない程時々純粋なところのある人。やや視野狭窄で、思い込んだら一直線で、冷静そうな表面とは裏腹に、結構熱血なところのある人。
 そして、何より自分を深く愛してくれた人。
 愛してくれたのと同じくらいに、自分も兄を深く愛しているのだと、彼の足取りを失ってみて初めて気付いた。彼をハリムにて待つ事が、自分が出来るささやかな愛情の恩返しだと思ったからそうした。力も持たない自分には、そんな些細な事しか思い浮かばなかったから。
 でも、10年経っても兄は帰って来なかったのだ。多分、自分は兄を待つのに疲れてしまったのだと思う。だから結婚するのだとも。

 きっと、これで良かったのだと思う。

 感じているのはとてつもない閉塞感。比較する事自体が浅はかだとしか思えないが、それでも結婚相手と兄とを比べずにはいられない。ここにいるどうしようもないブラコンは、何が何でも兄に1番を付けたくて仕方が無いらしい。だって兄の方が素晴らしい。
 天秤の上の愛情はいつでも兄の側に重きを置いている。
 おそらくこの感情を、人はマリッジ・ブルーだと揶揄するのだろう。違う。ユウリィにとってこれは閉塞感であり、敗北感であった。自分の中の怪物に負けたのだ。「彼は死んだ」と囁く怪物に屈服した。倒れ込んだユウリィの足元に落ちたのは絶望。
 静かに静かにユウリィは呟き続けていた。

 きっと、これで良かったのだと思う。


つづく


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