PIE JESU(2)


 何が怪物かと訊かれれば、間違いなく自分はこう即答しただろう。目の前の鏡に映っている、白いドレスを着た女が怪物だと。
 美しい装い。作られた笑顔。その仮面の下に潜むものは虚空。
 ユウリィは鏡の前で自分自身を見つめ続けていた。ウェディングドレス姿の自分を見て、誰もかれもが美しいと誉めそやした。ユウリィ自身もそれを満更でもない気持ちで受け取った。でもそう、それをこれから一緒に歩く人のために着た覚えは無いけれど。――本日、ユウリィは結婚する。
 幼い頃兄と結婚したいとごねて兄を困らせた事を、今になって思い返す。本当にそう出来れば良かったのに。これがどういう気持ちなのかは分からない、けれど今になって認識するのはやはり兄の事が好きらしいという事だ。自分は初恋を引き摺り続けている。結婚する今となっても、ぐずぐずと。
 その時聞こえたのは、こんこん、と控えめなノックの音。今度は何だろう? ユウリィは首を傾げた。先程から色々な人の出入りがユウリィの控え室にはある。やれ準備の進み具合はだとかやれドレス姿を見に来ただとか、そういうつまらない用事にかこつけてユウリィと話をしたい人たちが。今ノックをしたのも、そういった例に漏れない人間だろうと見当を付けて、ユウリィは振り返りもせずに返事をした。
「はい、どうぞ」
 普通なら、ここで即座に響きが返ってくるのが常なのだが。ハリムの住人とは、全てユウリィの知り合いと言っていい。打ち解けた間柄、何も遠慮する事無しにずかずかと部屋に乗り込んできてもおかしくは無いのだ。
 答えは返ってこない。入ってくる様子も無い。変に思い、ユウリィはもう一度呼び掛けた。自分の声が聞こえなかったのかもしれない。
「どちら様ですか?」
 それでも答えは無い。しばらく待ったあとも、やはり反応が無かったのでユウリィは小さく溜め息を吐いた。きっと自分の空耳だったのだ。鬱になる事ばかり考えているから、自分の耳は音を拾う事さえ疲れてしまったのかもしれない。ユウリィは首を振ると、また鏡に向かった。どのみちもう行かなければ。髪の毛や化粧の具合を最後に確認して徐にヴェールを着けると、ユウリィは立ち上がった。その仕草の全てが鏡に映る。その動作を見かけ、鏡の端に「有り得ないもの」が映っているのをはっきりと確認して目を見開いた。
 自分の精神とともに網膜さえも壊れたと思った。でなければなぜこんなものが鏡に映るのだ。この目に入るのだ。言葉は出なかった。有るのはただ衝撃。
 直後、叫ぶ、と思った。だって有り得ない。「有り得ないもの」は扉の前に立ったまま、鏡越しにユウリィと目を合わせている。どうして今になって10年もわたしを放っておいてわたしを打ちのめして大好きだったのにどうしてひとりにしたの兄さん。叫びはひとつも言葉にならない、喉を越えられずに心の奥で喚き続けていた。
 全く変わっていない、と言えば嘘になる。ユウリィがハリムに来てから10年になる。それと同じだけ、彼が消息を絶ってから10年が経過している。彼は34歳になっている筈だった。これで別れたままの姿であったなら、ユウリィは彼の姿を幻覚だと言って認めはしなかっただろう。だが、鏡に映る彼の姿は紛れも無く生きていたし、その分だけ年月を経ていた。
 兄は――クルースニクは、立ち竦んでいるユウリィに語り掛けた。染み渡るように静かな声音が、徐々にユウリィから安定を取り戻させた。
「ユウリィ…」
 ずきり、と胸が痛んだ。それでも振り返れない。振り返ったら消えてしまいそうだと、これは幻覚なんじゃないかと、今鏡に映るものを信じきれてしない自分がいた。自分を呼ぶ声。ずっと、こう、呼ばれたかった。
 クルースニクはなおも語り続けている。
「お前の結婚を、見届ける筈だった…」
「…」
「だが、俺にはそれが堪えられなかった」
「…」
 堪えられなかったのは自分の方だ。本当は結婚なんてするつもりじゃなかった。兄が帰って来るのなら、する必要なんて無かった。何処にも。もう、何処にも。
「全てを捨てて、俺と一緒に来てほしい」
 …世界でたったひとつ、どうしてもほしい言葉だった。満たされた自分を感じた。その時に、今まで自分に何が足りなかったのがようやく気付いたのだった。
 ユウリィの世界に足りなかったのはクルースニクだ。無ければ、ユウリィは生きていないも同然なのだ。クルースニクの生存の可能性の無い世界など、ユウリィにとってももはや生きる価値の見出せない世界であるに等しい。
 全てを捨てて。その甘美な響きに、ユウリィは束の間目を閉じた。
「兄さん…」
 またこの名を囁く日が来るとは思いもしなかった。
 そこにあるのは幻じゃない、現実だ。目を閉じたまま振り返ると、しっかりとクルースニクを見据えた。何も要らない。兄がいるのなら、どうして躊躇する必要がある。兄はこちらからけして眼を反らさなかった。ユウリィも同じように、けして目を反らさず見つめ続けていた。
 期待してもいいのだろうか。自分が10年諦め切れなかったのと同じで、兄も悶々とする日々を過ごし続けたと。どうやって生き残ったのか、今となってはそんな瑣末な事はどうでもいい。ただ生きていてくれただけで、ユウリィには過ぎる程の幸福だ。
 払拭されるのは絶望。希望はこんなにも世界に満ち溢れている。嘆きも叫びも、もう必要ではない。自然に沸いて出た感情をクルースニクに向けて、ユウリィははっきりと告げた。

「全てを捨てて、兄さんと一緒に行きます」


つづく


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