さばくのほし/あいのきせき(2)


 世界が救われて、1年。
 ユウリィはハリムに残る事を選んだ。アルノーとラクウェルの二人の仲間が、今はどうしているのか知らない。きっと、元気にしているのだろう。時折彼らから届く手紙からは、いつも優しい空気が詰まっているから。赤ちゃんが出来たと聞いて、とりあえずは幸せそうらしいと判断する。
 ジュードもユウリィと同じで、ハリムに残る事を選んだ。彼にとっての故郷は失われたが、それでも顔馴染みが多いこの村に残るだろう事は前から明白だった。
 監獄島から帰還してからというもの、世界は概ね平和だ。とりあえず当面の危機は回避されたという意味ではこれ以上無いくらいの平和がそこにはあった。フロンティア・ハリムも、申し分ない程穏やかで落ち着いた村である。腰を据えて生きるのには向いている。
 それでも時折考えるのだ。本当にこれで良かったのかと。自分ひとりだけ、こんなに平和で無害な世界に生きられて本当にいいのかどうか、まるで判断が付かない。生きられて自分はとても幸運だと思う。世界を救えてとても良かったと思う。それでも、心臓の奥が空っぽなのを自分ではどうする事も出来なかった。自分「ひとり」だけ。比べる相手は、胸の中にしか住んでいない。
 今日はジュードと一緒に遊ぶ予定だ。世界が平和になったからこそ、こんな子供らしい時間の使い方も出来るのだと、感じている。もう少し準備に時間がかかると言われてジュードに待たされている状況の中、手の中で弄ぶのはハリムに戻ってきたその日に発見したオルゴール。思い出深い旋律を奏でる、オルゴール。このオルゴールがどういった意味を持つのか、未だに判断しかねている。
 オルゴールを両手で包んで、静かに持ち上げた。目線の高さから眺めてみれば、やはり似すぎていると言わざるを得ない。小ぶりながら、技巧を凝らして作られている。けして子供騙しの品ではない。子供の頃に自分がこさえた傷跡もしっかり残っているのが、はっきりと確認出来た。間違いなく、子供の頃に所持していた品と同じなのだ。確かそれは、兄が孤児院を出る時に持ち出して以来、見ていない。
 その時に見ていたものと、今自分が手にしているものとが同一であるならば。…その先の推論は、怖くてまだ踏み出せずにいる。
 それにしても、いつになったらジュードはやってくるのだろう。ユウリィは痺れを切らして溜め息を零した。準備に手間取ると行ったけれど、何を必要としているのだろうか。もう一度浅く溜め息をついた時、背後でがさりと草むらが動く音がした。
 ようやく来たか、と思い振り返ったが、そこには誰もいない。
 …違う。そこには気配がある。ユウリィが見つめる視線は街の外れ。人が少ない街の西側。ここからでは家の影になってしまい、その領域の全ては見通せない。長く逃亡生活を続けていた所為で、こういった気配には驚く程敏感な自分がいる。その影に悪意が認められないのを、かえって不審に思いユウリィは静かに語り掛けた。
「…誰か、いるんですか?」
「ユウリィ!」
 ふと呼ばれて、ユウリィは自分を呼んだ相手を振り返って見た。いたのはジュードだ。
「やっと来たのね」
「うん、遅れてごめんね」
 悪びれるふうもなく、ただ表れるのは無邪気な微笑み。ジュードは少しだけ息を弾ませてそこにいた。自分から呼び出したのに遅れるなんて、と小さく責めたが、それに構った素振りは無かった。
 あれ、と思う。先程までの濃密な視線や気配が消えている。気のせいだったのかもしれない。気配ではなく、パラディエンヌとして感知した怨霊のようなものだったのかもしれない。
「ん? どうかした?」
「ううん、何でもないの。それで、今日はどうするつもりでわたしを呼んだの?」
「今日はね、僕の大発見を一緒に見てほしいと思ってッ!」
「…大発見?」
「そう、大発見。ユウリィもそれ見たら、きっとびっくりしちゃうから」
 それ、が一体何であるのか、明確な説明も無いままユウリィはジュードに付き従い歩き始めた。相変わらず、前にいるジュードはユウリィの速度など気にした様子も無く自分の速さでどんどん進んでいく。歩きにくいヒールの高い靴で懸命に追いかけながら、ユウリィは森の向こうへと進んで行った。

 森の中を、ただ淡々と歩き続ける。きつくなり始めている陽射しは、夏の到来を予感させた。太陽光は森の奥深くまで照らし、隅々まで明るくなった森にもはや未知は無い。それでも、ユウリィには未だにジュードの目指すものが何なのか分からなかった。無言でついて行く事しばらくして、痺れを切らしたユウリィは彼の背中に向かって問い掛けた。
「…ねえ、ジュード、何処まで行くの?」
「もう見えたよ」
「え?」
 ジュードは立ち止まると、その先にあるものを指差すのみだった。指差す向こうは森を越えた先、一際太陽の眩しさが際立っている。
 特に何かがあるようには見受けられない。これといって変わったものがあるとは思えない。森の向こうにあるのはただの大地だ。この森を越えるのはユウリィにとっては初めての体験だが、結果など分かった事だ。
「何かあるようには、見えないけれど…?」
「何かあるのは大地じゃないよ。空」
「空…?」
 その言葉の思わぬ冷たさに、ユウリィはジュードの表情を仰いだ。この一年で少し背が伸び、まだユウリィには届かないといっても追い越されるのもいよいよ時間の問題となってきた。そして、ハリムに残る事を選んでからというものの、今この時のように大人のようでもあり子供のでもある複雑な表情を見せるようになった。ある痛みを、体の他の箇所を痛ませる事でわざと感じなくさせている、そういう顔。
「見て。ここから空を」
 言われた通り、空を仰ぐ。隣にはいつものようにジュード。森の終わりから空を見上げる。
 そこにあったものは。
「…?」
 最初は空の黒点のようだと思った。だが、空に黒点など無い。それが有るのは太陽だ。空の高い場所にぽつぽつと小さな点がいくつか確認出来る。良く見れば、それは点ではなくいずれも変形した多角形でなおかつ厚みが感じられた。3次元的に空中に展開している何かの存在。
 空に浮かぶ、何か破片のようなもの。岩石というには鋭いものが遙か彼方の空中に染みのように浮かんでいた。そこだけぼんやりと灰色で、なおかつ地面にごく僅かな影を作っているからそこに異物があると言えるのだ。
「あれ、何だと思う」
 目の良いジュードが手を翳して、目を細めた。
「さあ…? 何か、欠片のように見えるけれど…」
「シエルの破片だよ」
 彼が即答した答えに、ユウリィは身が震えるのを覚えた。
 時が、止まったかと思った。

 ――ジュードにとっての“全て”が始まったあの場所の。


つづく


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