さばくのほし/あいのきせき(5)


 あれから数日が経って。
 故郷云々の話は、もう忘れる事にした。きっと、その方がいい。渾身の力を込めて、あの一件については考えないようにしている。

 いつものように、ユウリィが洗濯物を干しに外に出た時の事だった。濡れた洋服がこんもり入った洗濯籠を抱えて外に出てゆく。義父との暮らしが長かった所為で家事全般一通りこなせるが、だけにひとり暮らしそのものには未だに慣れない。一緒にいたいと願うあの人の顔を頭に思い浮かべかけ、ユウリィは渋面を作った。そんなものはただの妄想で、叶う見込みも無い。考えるだけどうかしている。
 妄想を拒絶しながら太陽を透かしそうなシャツを干していると、ふとユウリィは誰かの視線を意識した。…誰かがこちらを見ている。気付きたくなくても過去の放浪が生んだ体験がそれを許さないのだ。それは一瞬の隙を生む事さえ許さない。手元や表情はまるで気付いていない振りを装いながら、ユウリィはその視線の在りかを探った。
 一体相手の目的は何であるのか。敵意や悪意のような冷たさは感じない。むしろどちらかというと温かささえ感じる程であった。研究員の生き残りが自分を再び攫いに来たのかとも思ったが、それにしてはその温かみのある眼差しが理解出来なかった。ハリムで出来た友達。この村の重鎮たち。アルノー。ラクウェル。ジュード。様々な可能性が頭の中を掠める。この視線はそのどれでもない。ユウリィはごくりと小さく唾を飲むと、その場に躍り出た。
「誰…なの…?」
 どく、どく、と心臓は逸っている。自分でも軽率だとは思った。それでも前に出なければ何も分からない。
 ユウリィが前に出るのと同時に霧散していく視線。ユウリィが視線に気が付いたと知って、そいつは逃げたのだ。自分が失敗したと知って、ユウリィは落胆を覚えた。緊張しっ放しだった意識を通常へと戻すため、とりあえず顔を伏せて深呼吸する。
 その途端、いつか、同じ体験をした。と脳にびりり、と走る過去。あれはシエルの破片の件の直前だ。あの時にも同じ眼差しを持つ相手と自分は接触している。そうだ、あの時にも視線の主には逃げられたのだ。
 相手は一体何がしたいのだろう。分からないからもやもやとする。ユウリィを見て、そして一体どうしたいのか。何をするわけでもない、ただ見つめて。
「…みんなに相談した方がいいかな?」
 今何もしなかったからといって、この先も何もしないという保証は無い。ユウリィに何もしなかったからといって、他の誰にも何もしないとも限らない。ハリムの管理者、言わば実質的なリーダーに――それはアーチボルトに他ならないのだが――相談する必要を感じた。
 ユウリィは家事を終えるとその足でアートボルトの家へと向かった。ひょこりと彼の家兼作業事務所を覗き込むと、そこにはいつものようにアートボルトがいた。ユウリィの予想通りであればそこにはいつも通りの柔和な顔つきをした彼がいた筈であったが、予想外に彼は眉間に皺を寄せて手元の資料に見入っていた。彼がそんなふうに気詰まりな雰囲気を作り出すのは珍しい。ユウリィは彼に駆け寄ると挨拶とともにその一枚の紙について尋ねた。
「こんばんは、アーチボルトさん。…あの、それって…?」
「ん、ああ、君か。ちょうど良かった、君にも話しておこうと思っていたところだよ」
「え?」
「これなんだ」
 と、厳しい表情を崩さないままユウリィにその紙を見せた。鉛筆で描かれたその絵は妙に現実味のある似顔絵らしき絵だった。勧められるままに手に取ってみれば、その似顔絵の下には「要注意。見かけたら自警団に連絡を」とある。随分物騒だ。
「最近この辺りに不審人物が出ているようでね」
 アーチボルトが説明してくれたのは、こうだ。この頃村に不審人物が出没しているという。とりたててその男性(その不審人物を見かけた人の証言を集めるに、男性である事は確実だという)が何か仕出かしたわけではないものの、村人でない者がこの辺りをうろつき、さりとて村のコミュニティに参加しようとしないのは不気味であると村人たちからアーチボルトに苦情めいた囁きが届いているらしい。
「だから君も、気を付けてくれ。何も無いとは思うが、君はひとり暮らしだし用心するに越したことは無いんだからね」
「…だけど…」
 素直に「はい」と返事をすることを期待していたらしく、アーチボルトは少し不思議そうな顔をしてユウリィを見つめた。だけど、とユウリィは口元に握り拳を当て、静かに反論を口にした。
「だけど、この村のあちこちに出現するといっても、何か問題行動を起こしたわけではないんでしょう? そんなふうに決め付けるのって、どうかなって、ちょっと思います。もしかしたら入植するタイミングを計っているだけなのかもしれませんし」
「――君は、何を言っているんだ?」
 ユウリィの些細な反論に、アーチボルトはかっと目を見開いて怒りを露わにした。滅多に荒っぽい感情を吐露しない彼にしてはこの行動は珍しく、ユウリィは恐れのために一歩後ずさった。
「君には分からないかもしれないが、トラブルというものは何かあってからでは遅いんだ。何もかもを未然に防ぐ必要がある。街を守る、という事はだね、ユウリィ、防御をどれだけ熱心にしてもしすぎるという事は無いんだよ」
「はい…」
「これは君の、これから君の故郷となるべきこの場所を守るために必要な作業なんだよ、ユウリィ」
 故郷。またその言葉。
 項垂れて、ユウリィはじっとその単語をやり過ごした。

 そんな折、ハリムにある噂が飛び交い始めた。
 ハリムに不審人物が出没するという、他愛の無い噂だった。あとからあとから入植者がやってくるこの土地では、毎日不審者と出会う確率がある。いちいちそんな戯言を言ってはいられない。が、どうもその不審人物というのはその入植者の類とも違うようで、あっという間に平和な村はその噂話で持ちきりになった。
 正確にはその不審者は村の中にまで入ってくるわけではない。村に差し掛かる、その森の中でよく見かけるという報告がある。即ち、不審者には森の中でのみ会うと言える。ハリムの中で会うのなら、入植者だと言えただろう。だがそうではない。村の外でしか見られないからこそ、その不審者が不審者たる所以だ。
 特別彼が何をするというのでもない。森の中を、時折彷徨っているその人間がいるというだけの話である。不審なのは森に近付いておきながらハリムに入植しようとはしない点である。孤独が好きなのかもしれない。ただ、生活のあらゆる面において村の援助を受けた方が楽である。孤独を愛しているといっても、村の中で孤立する事だって出来る。そうしないのは、何かひとえに理由があるからなのか。
 退屈な村人たちはこぞって噂話に精を出した。
 そうして、やはり同じように緩慢な退屈を覚えていたユウリィにもその噂が届くところとなる。


つづく


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