サスペンド(1)


 第256代女王アンジェリーク・リモージュが、空気の中を泳ぐように公園の中を歩いている。黒いふわりとしたシルエットのワンピースに、その僅かに見え隠れする足元からは白い靴下と足元には粘っこい黒い光を放つ靴を履いている。全身を覆う形のワンピースは、少しだけ古臭い型だ。
 遠い目をしたまま、その目の焦点を何処へも合わせないまま、ぼんやりとした笑顔のまま、アンジェリークはその場所に向かって一心に歩を進めている。――すると。
「陛下っ」
 公園を突っ切って歩いていた時、ふいに陽気な声に呼び掛けられてアンジェリークの視線は彷徨う。緑の髪にサングラスをかけた、度々聖地にやってくる商人がアンジェリークの事を手招きしている。ふわふわと幽霊のような足取りで彼の元に近付けば、何やらものが入っている様子の紙袋を手渡された。
「これ、なあに?」
「なあにじゃないやろ。陛下がそれを先日注文されたやんか」
「あら…」
 そういえば商人に頼んでいたのだった。
 注文した品を今になって思い出す。目にも鮮やかな幼児用の靴下を一揃い、と言ったのだ。茶色の紙袋の向こうに、よくありがちな彩度の強い緑や赤などの色とりどりの色彩が見えるようだった。アンジェリークはふわりと微笑むと商人に告げた。
「すっかり忘れていたわ…ごめんなさい」
「陛下はボケボケやんな」
 商人の口調は台詞ほど厳しくない。彼なりの冗談のつもりなのだ。ごめんなさい、とアンジェリークは謝罪すると袋を彼の手に戻した。
「ごめんなさい、折角用意してもらってこういう事言うのも気が引けるんだけどね、これはもう要らなくなったの。申し訳ないけれど無かった事に出来るかしら」
「ほんまかいな…ほしたらしゃあないわ」
 大げさに、商人は腕を広げると肩を竦めてみせる。
「うん。次はきっと別のものを買うから、それで許して?」
 商売相手が宇宙の女王とあっては、商人に不満があったとしてもそれを面に出す事など出来ないのだろう。商人はあっさりと納得した。「それより、」と、突然商人は小声になるとアンジェリークににじり寄った。
「それにしても、陛下?」
「なあに?」
 内緒話をする時のように手をアンジェリークの耳に当て、こしょこしょと商人は何事かを耳打ちしてくる。コミカルな仕草の割に珍しく真面目な表情をする商人に対し、アンジェリークは至って朗らかに応対した。
「今日の聖地、なんか変な感じとちゃいますか」
「え? どうして?」
「いつもよりピリピリしとるっちゅうか、空気が張り詰めてる…っちゅうか。あんまりいい気分やないね。その所為か知らんけど売り上げもさっぱりやし。なんやよう分からんけど、売り上げはさっぱりな割に白い花ばっかり売れよるのも気味悪いんやけど、陛下は何か心当たりないんか?」
 と、今日ばかりなぜかよく売れると言ったその白い百合の花を掲げて商人は不思議そうに首を傾げる。鏡に向かい合うようにアンジェリークも同じ仕草をした。思案する時のいつもの癖として、人差し指を頬に当てる。
「さあ…わたしは何も。だって、私は白いお花なんて買ってないじゃない? 買った人に聞いてみたら良かったのに」
「聞けるような雰囲気やなかったんやって。俺のいっちばん苦手な、あの辛気臭い雰囲気はたまらんわ。さっさとお帰り願ってもらったでな」
「ふうん、そうなの…」
 あまり興味なさそうな口調で相槌を打てば、商人はそれに気付いたのか苦笑した。
「そういや陛下、なんか用事があったんとちゃいますか?」
「え? …あ。そうだった。リュミエールの所に行こうと思っていたんだった。わたし、行かなきゃ。じゃあね、商人さん」
「またご贔屓にな。陛下ならいくらでも勉強しますさかい」
 ばいばいと手を振れば、商人も当然のように振り返してくれるのが嬉しい。十分に彼と距離を取ったあとで、アンジェリークはようやく安堵に息をついた。
「ああ…良かった。これで余計なお金を使わずに済んだ。諦めなくて、本当に良かったと思うわ」
 子供の靴下。それとも、敢えて買ってリュミエールに贈ってあげたら素敵な事になっただろうか? その使い道の無さを思うとアンジェリークは自然と口元が緩むのを覚えた。

 そして、今度こそアンジェリークは真っ直ぐにリュミエールの私室へと向かった。



 夢見心地でアンジェリークは歩く。今頃彼はどうしているだろう。悲嘆に暮れているだろうか。涙で湿度の上がっているリュミエールの部屋を想像するのは快感だった。一層ゆらゆらとした歩調になったアンジェリークに呼び掛けるものはもう無い。寄り道のひとつすらせずアンジェリークはとうとうリュミエールの私室へと辿り着いた。チャイムを鳴らさずいきなり扉を開けて入り込む。
「リュミエール。いるのね?」
 どうせいるのは分かっている。徹底的に打ちのめされている筈の彼が外を出歩けるわけがない。外に出たとして、それが何になる。在るのは人々の同情と、それを上回る好奇の視線のみ。あくまでも自分自身を繊細として振舞うリュミエールにとっては、それはたいへんに神経を掻き乱される目線に違いない。なればこそ、必ずここにいるに違いないと信じてここに来たわけだ。
 リュミエールを見つけてどうしようというのか。目的はひとつだ。徹底的に××させる事。リュミエールがアンジェリークにしてくれた事、その全てを返す事。これはその報い。因果応報なのだ。そのために、あんな気味の悪いものまで入手する羽目になったのだ。――
 アンジェリークは迷いない足取りでこの私室の中で最も南に位置するアトリエに向かった。ゆっくりとアトリエの扉を開ければ、果たしてアンジェリークの目的の人はいた。思わず、嬉しさに声を上げてしまった。
「見つけた」
 真っ黒に塗り潰されたキャンバスの前に彼はいた。まんじりともせず彼はこちらに背を向けている。見えるのはただ病的な絵画だけだ。アンジェリークには絵の良し悪しはよく分からないが、それでも言えるのがこれをリュミエールが絶望の只中にある事を表現しているらしいという事だ。
 辺りを見渡した。このアトリエにある絵は全て切り裂かれている。リュミエールが自分でやったのだ。ここに置かれている絵画はどれも希望を模写したもの。幸せそうに微笑む彼らの未来。満ちている筈の明日は、全て容赦無く叩き壊された。意味が無くなって、置いてあるだけでもつらくなるだけだから切り裂いたのだろう。
 その衝動を思うと、アンジェリークは気持ちが良くて吐きそうになる。
「そんな暴力的な絵を描いていたのね」
 今ようやく気付いたといったふうにリュミエールの体がアンジェリークの方へと向いた。その視線はぼんやりと侵入者を捉えているが、目に光や力は無い。虚空を見つめる彼の瞳に、アンジェリークは満足げに口角を上げる。
「ねえ、絵なんて描いてないで。ロザリア、今とても不安定な状態なのよ。会ってあげたらどう? …会ってくれるかどうかはわからないけれど」
 リュミエールの視線が、揺れる。ロザリア、という単語に反応したのだ。そのやつれた頬に嬉しさを感じて、アンジェリークは更に畳み掛ける。
「あなたはもう知っているんだったかしら。入院直前のロザリアから聞いたの? だから…わたしにそんな目を向けるの?」
 アンジェリークの言葉がリュミエールの耳に届く度に、ひとつひとつ彼は感情を取り戻していく。その恨めしげな目付き、世界に絶望し歪められた口元、殺意を隠さない瞳。彼の、狂おしげな心の奥の世界。それら全てが、アンジェリークが次の言葉を放つ原動力となる。
 アンジェリークは微笑みながら彼に止めを刺した。

「可哀想にあの子の子宮は二度と使い物にならないわ」


つづく


→第2話へ
→ネオロマ小説へ
→home