サスペンド(2)


 ことの3日前。
 アンジェリークはロザリアをお茶会に呼んでいた。久方ぶりのふたりきりのお茶会だ。現れたロザリアはゆったりとしたシルエットのドレスを着ていた。腹部の膨らみは、そうと意識してみないと分からないくらいのものだ。膨らみの分かりにくい特殊なドレスを着ている事もあり、未だアンジェリークは彼女が妊婦ではないのだと感じてしまいそうだった。
 アンジェリークはロザリアの腹部に視線を注いだ。それに気付き、ロザリアは腹部に手を当てる。
「楽しみね」
 アンジェリークは満面の笑みで言う。
「そうね」
 ロザリアは静かに肯定すると、内部に潜むいのちを思い腹部を撫でた。まだ、そのいのちは脈動を他に悟らせない。アンジェリークはそこから視線を逸らすと、目の前の「それ」にロザリアを注目させた。
 大切なロザリアに、一番彼女が喜びそうなものを用意したのだ。今日はそのための茶会である。
「とびっきりの紅茶を用意したの。さあ、楽しんでいって。すっごくいいお茶っ葉なんだから、おなかの赤ちゃんにもたっぷり味わわせてあげてね」
「まあ、そんないいものを飲んでしまうのなんて、何だか気が引けるわ」
「気にしなくていいのに」
 真っ白で傷ひとつ無いポット。無名の品だからこそ味わいがある白い茶器に、アンジェリークは手ずから紅茶を注ぐ。その、今まで見た事も無いような色合いに、ロザリアは紅茶の水面を見詰めた。
「これはなんてお茶かしら? 見た事が無いわ」
「この宇宙の果てにある小さな惑星の、そこの名産物なんですって。まだ知っている人も殆どいないとか。名前は…何だったかな、忘れちゃった」
「よくそんなの知ってたわね」
 紅茶にあまり明るくないアンジェリークがなぜそのような玄人向けの茶葉を知っているのか、と言いたげだ。その質問なら当然予測済みだったアンジェリークは喜んだ。
 大丈夫。回答なら準備してある。段取りを考えれば実に簡単なものだ。
「だって、普通の紅茶を選んでもロザリアはもう知っているでしょう? そんなのつまらないもの。どうせなら、わたしだけしか知らない紅茶を持ってきてあなたをびっくりさせたいと思って」
「…嬉しいものね、こうして祝ってくれる同性がいる事は」
 アンジェリークが一番傍にいてくれている事に、しみじみとした感動を覚えながらロザリアは紅茶に口を付けた。
「――あら、美味しい」
「当たり前でしょう?」
「そうね、あなたが用意したとびっきりの紅茶が、美味しくないわけがないわ」
「ロザリアに喜んでもらえて、わたし、とっても嬉しいわ。きっと喜んでくれるって知ってたけど、きっとこうなるって知ってたけど、それでもやっぱり嬉しい」
 アンジェリークはそう言うと、自分のカップにも紅茶を注いだ。この一杯に、宇宙がひとつ傾く程の財産が投入されている事をロザリアは知っているのだろうか。アンジェリークが何処か冷めた調子でロザリアの事を考えているとも露知らず、ロザリアはゆらゆらと揺れる紅茶の水面を見つめながら、少し恥ずかしそうに切り出した。
「ねえ、アンジェリーク?」
「ん?」
「わたくし、あなたがいてくれて良かったと思っているの。本当よ」
 思いもかけない発言に、アンジェリークは返す言葉を失って黙り込む。目をぱちぱちと開閉させるのみで、意味のある動作を咄嗟にひとつも取れない。
 自分は馬鹿だ。言葉を返すべきタイミングを失ってからそう感じた。何食わぬ顔で「わたしもよ」と言えば良かったのだ。やはり、自分は咄嗟の判断力に弱い。
 魂の奥に渦巻くのは呪いの言葉。今はまだ時ではないから心臓の中に仕舞い込む。
「どうして、急にそんな事を?」
「あなたは…わたくしの事を、嫌っているのだと、長い事そう感じていたから。あの時あなたはわたくしを許すと言ったわね、でも…わたくしはあなたを疑っていた。あんな…わたくしでもあれが卑怯だったと分かるくらいなのに、あれだけの事をされたあなたがわたくしたちの事を簡単に許せる筈が無いとこれまであなたを疑ってきたの。でも…そうじゃないってようやく今確信出来て、それを嬉しく感じたのよ。…ずっとあなたを疑っていたわたくしの事、許して下さる?」
「許すなんて…そんな…。もういいじゃない」
「あなたというかけがえのない親友を疑い続けてきた、愚かな、心の弱いわたくしを許して下さる?」
 澄み切ったロザリアの青い瞳。視線にじっと射抜かれて、アンジェリークは居心地の悪さを自覚する。全く自分が悪いと知っている者の開き直りのたちの悪さといったら無い。
「ええ、勿論よ。過去の事じゃない。全部」
「そうね。過去を引き摺ってあなたを不信の目で見ていたのはわたくしの方。全部わたくしの所為なのにね。心からあなたを思える事を今、とても嬉しく思うわ。…ねえアンジェリーク。許しあえたわたくしたちは、きっとこれから、上手くやっていけるわ、そうでしょう?」
「…」
 もう、全てが呪わしい。アンジェリークはロザリアの問い掛けには答えず、俯いた。
 この身を焼き焦がす憎悪の炎が一片とも消えていない事を、アンジェリークは心臓に掌に当てて自覚する。血管に乗って全身に行き渡る怒りのために僅かばかり発汗して息が荒くなっている。…まだだ、まだ、このままじっと耐えなければ。時が始まるまでは。
 わけの分からないロザリアの言葉に最初は戸惑ったが、それも今この時のためならば悪くない。燻る憎悪に再び点火をするためならば、彼女の発言はきっと間違ってはいないのだ。
「――う、ん…?」
 アンジェリークがロザリアの発言に対して答えを返そうと面を上げたその時、ロザリアがふと声を上げた。
「ロザリア、どうかした?」
「気のせいかしら、急に眩暈が…」
 言って、ロザリアは片手で額を押さえた。気付けば彼女の顔からは脂汗がびっしり浮かんでいた。…そろそろなのかもしれない。アンジェリークはロザリアに顔を近づけた。彼女の唇は青い。まるで死人のようだ。
「ねえ、ちょっと、大丈夫? 何だか顔色が悪いみたいだけど」
「ええ…」
「…でも、ここまで来たんだもの、紅茶を最後まで飲んでいってくれるよね」
「…アンジェリーク…?」
 ロザリアの目が。網膜が細かい震えを起こしているのを見て危うくアンジェリークは歓喜の声を上げそうになった。来た、来た、わたしの時が来たんだ!
 時が来た。全てを始めて全てを終わらせる時が。
 アンジェリークは笑顔を歪ませる。その昏い目を先程ロザリアが口を付けた紅茶へとやった。どれだけ紅茶の量が減っているのかを確認すると、失望して肩を竦めた。そして早口で捲し立てる。
「なんだ、たったこれだけしか飲んでないの? これじゃ全然苦しめないじゃない、何考えてるの? でもまぁいっか。わたしの目的は最低限果たされそうだし。ねえロザリア。わたしもすごく楽しみにしてるの、ほんとよ。あなたのかわいい天使があなたの元から消滅するその瞬間を」
「――っ、…」
 本性を表したそのアンジェリークの憎悪に衝撃を受けたからか、或いは紅茶の本来の中味であるそれに酔ってか、ロザリアはあっさりと気を失った。映画のようにゆっくりとテーブルの上に倒れこんでいく青い瞳の女王補佐官。彼女のほっそりした腕とぶつかってがちゃん、と、カップが床に落ちて割れる。白い陶器の破片から中味が零れて床にじわじわと水溜りを作った。
 アンジェリークは冷笑を浮かべると、小刻みに痙攣するロザリアを見詰めた。
「さて、それじゃ仕上げね。医務局に連れて行ってあげるわ。絶望にまっさかさまに落ちていくあなたとあの人が見ものね。…大丈夫。あなたを死なせはしない。きっと生かしてみせるわ。…」
 今回の目的は、あなたを生きながらにして地獄に突き落とす事にあるのだから。

 そうして、ロザリアが倒れたその瞬間から今まで、アンジェリークはずっと微笑み続けている。


つづく


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