真実は窓の向こうに・1


「じゃ、な」
 その言葉だけ残し、アリオスはアンジェリークの執務室から出て行く。アンジェリークはいつものように、その後ろ姿に向かってゆっくりと手を振った。応えるように、彼は1度きり手を振り返した。
「うん。頑張ってね」
「まかせろって。お前の守護聖より俺は役に立つんだって事、証明してやるよ」
 ここは、アンジェリーク・コレットの守護する聖獣の宇宙。今アンジェリークは、自らの手足となって働くアリオスに新たな仕事を頼んだところだった。
 アリオスは守護聖ではない。補佐官でもない。一言で言えば「便利屋」とでも言うべき事をしており、アンジェリークから依頼される、守護聖に任せるのにはやや荷が勝ちすぎる仕事をこなしている。エトワールであるエンジュと役柄は似ているが、守護聖を見つけて説得するのが仕事のエンジュとは違い社会の裏に潜み人知れず汚い仕事を一挙に引き受けている。
 先程の彼の言葉は自意識過剰でも何でもなく、実際の依頼達成率の高さがそれを物語っている。彼は出来ない事を大仰に騒ぎ立てたりはしない。出来る、と言い切るからには実際に簡単にこなしてしまうのだ。それをアンジェリークは高く評価している。
 まだ安定していない惑星では問題が勃発するのが常だ。そして、どうしてもその沈静化のためには世界を知らぬ守護聖よりも修羅場を潜り抜けてきたアリオスの方が適任なのだ。
 それを彼は持ち前の能力で乗り越えていく。聖獣の宇宙の主星にいる、他の誰にも出来ない仕事だ。

 アンジェリークがアリオスを聖獣の宇宙に連れてきて幾許かの時間が経った。
 当時から、元敵であるアリオスを聖獣の宇宙に連れて帰る事については幾度も反対にあった。特にアンジェリークの一番の理解者を自称するレイチェルの反発は大変なものがあった。
『またアナタを裏切る可能性がないなんて言えないよ!』
 アリオスを激しく警戒するレイチェルの気持ちも、アンジェリークにとっては分からぬでもない。彼を信頼すればするほど、裏切られた時の胸の痛みは耐え切れなくなる。破れそうになる心臓を抱える羽目になる。一度それを経験したアンジェリークを一番近くで支えてきたレイチェルだからこその、警戒と不信感。今でさえ、レイチェルはアリオスにはまだ心を開いていない。アンジェリークがいくら説き伏せても、レイチェルがその言葉に耳を傾けた様子は無かった。
 けれどどれだけレイチェルが否定しようと、アンジェリークとしてはアリオスに裏切る意志はけっしてないと分かっていた。だから聖獣の宇宙に連れてきたのだ。
 彼が裏切らないなどと、なぜ、そう直感できたのだろうか。結局は理屈ではなく、そう思い込みたいだけなのだ。好きな人が傍にいる。裏切られても敵に回っても、生涯変わる事の無い思いが、近くにいてくれるのならどうして変化する事があるだろう?
 彼の近くにいられて、いよいよアンジェリークの思いは募るばかりだというのに。

 アンジェリークはアリオスを愛しているのだ。

 一番の傍にいてほしい。願いはそれだけだ。
 極端な事を言えば、彼の心が自分に向いてなくても良い。ただ、近くにいられるだけで。時々一緒の時間を過ごしてくれるだけで、アンジェリークは天にも昇る気持ちになれるのだ。ただ、アリオスからの気持ちは怖くて訊けないでいる。拒絶されたら、今度こそ絶望して何も見えなくなってしまうから。言葉など要らないけれど、ただ1日のうちほんの数分でもいいから同じ時間を過ごせるだけでいい。これ以上の触れ合いなど、贅沢なのだ。
 その昔、聖獣の宇宙に来てほしいと申し出た時、彼はあっさりと快諾した。アンジェリークにはそれが嬉しかった。アリオスが自分に向けてくれる気持ちは、恋愛感情ではないんだとしても、少なくとも自分の事を心配してくれているのが分かったから。
 きっと裏切らない。その保証は何処にも無いけれど、アンジェリークは心からそう信じているのだ。
 窓の向こうに目を遣れば、広場にアリオスがいるのが見えた。アンジェリークはアンジェリークの仕事をしながらも、ついちらちらと見てしまう。彼はベンチに座り、書類をじっと眺めている。近くにある、永遠に咲き続ける桜の木にも目を留める様子は無い。完全に仕事に没頭している。
 その視線が書類の束から全く動かないさまを、いつしかアンジェリークは手を動かすのをやめて飽く事も無く見つめ続けていた。その彼の視線は、初めて出会った時からずっと同じ。全く迷いのない視線。今、彼の世界はその仕事それだけになっていた。アンジェリークでさえ介入できないほど、集中している。
 彼のあの目が好きだった。
 いつも彼は言っていた。この意志を譲るくらいなら死ぬと。彼の瞳はその意志を端的に表現していると思う。あの極端な頑固さが好きだった。あれくらいの強い意志が欲しかった。
 彼の隣にいられれば、ごく僅かでもその強さが手に入るような気がするのだ。…
「アーンジェっ! おはよう!」
 その時、急にドアを開けて入ってきたのは、レイチェルだ。
 窓の向こうを見ていたアンジェリークは、反応するのが一瞬遅れた。ペンは握ったまま全く動かず、書類は白紙のままで止まっているアンジェリークの勤労状況を、レイチェルは一瞬で判断した。
「ちょっとぉ。仕事、してる?」
「し、してるよちゃんと」
「…嘘吐き。何見てたの?」
「あそこ。アリオスがいるの。…ここから私がずっと見てるのに、全然気付いてないみたいなの。子供みたいに集中しちゃって、おかしいったら無いわ」
 世界中で誰よりも信用していない人物の名前を出されて、レイチェルは気分を害したようだった。眉間に皺が寄る。仕事はしていない、していた事はといえばレイチェルの嫌いな人間を見ていた事だけ。アンジェリークの最悪な勤務態度に、レイチェルの声のトーンは一気に下がる。
「もう、嫌んなる。どうしてその名前を出すかな」
「あ…ごめんなさい」
「アナタも、ワタシが嫌いだって知っててその名前を出すんだから…。重罪よ」
「そんなに嫌わなくてもいいのに。優しい人なのに、」
 言いかけたところで、もう聞きたくないとばかりにレイチェルは手を一振りしてアンジェリークの発言を拒絶した。
「ワタシはね、アンジェ。アナタを泣かせるような男は大嫌いなの。完っ全に、これっぽっちも、信用してないんだから! なんかヘマしたら、いつだってここから追い出す気でいるんだからね、アンジェ」
「むー…」
 レイチェルの心配は分かる。自分を思ってくれているからこそ、物言いがきつくなるのも分かっている。けれどこれは、あまりに過保護なのでは。
 レイチェルは眉を吊り上げて散々怒りをぶちまけると、急に何か閃いた顔をした。
「そういえば、アリオスといえばさ」
「なあに?」
「エンジュと接触したみたいよ」
「…?」
「エンジュから聞いたところによると。アドレスまで交換しちゃったらしい」
 じわり。胸の中にもやもやとした感情が広がっていくのが分かった。肺が詰まって、息もしづらくなる程の気分の悪さを覚えて、アンジェリークは口許を押さえた。
 エトワールにはそこまでの仕事は要求していない。
 勝手に、アリオスに会ったりしてほしくなかった。エトワールの仕事は聖天使としてたくさんの宇宙を巡り行く事。それ以外の事は注文していない。他の誰にも近付いても構わない、見目麗しい男性が必要ならば、いくらでも聖獣の宇宙の守護聖を手に入れればいい。けれどアリオスだけは!
 …こんなふうに思ってしまう自分が惨めで嫌で、アンジェリークは胃の奥から込み上げる嫌悪感に耐えた。ここで吐露は出来ない。レイチェルの前で、そんな真似は出来ない。聖獣の宇宙が、ただひとりの男に執着してみっともなく嫉妬を露わにするなどと。許されない、この感情は大罪だ。
 エトワールはよくやってくれている。それなのに自分ときたら、些細な事で深く彼女に怯えを感じ、恐れている。彼を持っていかれてしまうのではないかと。
 こんな自分は女王らしくない。全く女王らしくない。女王の資格など、この自分には…
「…」
 何とか正気を装おうとアンジェリークは口を開きかけたが、レイチェルは止めの一撃を加えてきた。

「あの二人ね、すごく息が合ってるみたい。この前もデートしたんだって」

 しばらく、息も出来ずにアンジェリークは呆けていた。がんがんと頭蓋を鈍器で殴られ続けているかのような痛み。死んでしまう、このままでは。息も出来ず、考える事全てを放棄して。
 いっそ死んでしまえたら、良かった。そんな単語を聞いてしまうのなら、耳に届く前に消えてしまった方のが、余程。
 自分はエトワールとは違い、アリオスと1日を二人だけで過ごした経験など無い。せいぜい数分が限界だ。二人の時間が合わない事もある。周りが巧妙にアンジェリークとアリオスを二人だけにしない策略を練っている事もある。けれど、そんな障害を乗り越えてまで二人きりになる事だって、出来た筈なのに。
 アリオスは、アンジェリークのために時間を作る事は出来ないのに、エトワールにはそれが出来るのだ。両手から大事なものが零れ落ちてゆく感覚。アリオスが自分の思いに応えてくれなくとも良かった。けれど、彼が他の人がアリオスの心を捕まえるのは耐えられない。叫び出しそうになるのを、懸命に我慢した。泣き出したくなるのも。
「エンジュってアリオスみたいなのとも対等に付き合えるみたい。相当強い子だよね」
「…」
「アリオスとちゃんと付き合えるのなら、彼女、敵無しなんじゃないのかなあ?」
「…」
「だからね、これは提案なんだけど…彼女の試練が終わったら、エンジュをここに残すのってどう? もちろんアナタや彼女の意志もあるだろうけど、あの子は周りのみんなと結構うまくやっていけるんじゃないかと思っ…」
「やめて! もう、聞きたくない!!」
 アンジェリークは空になった両手で耳を塞いで、机に突っ伏した。急に荒げた声に、レイチェルは驚きに書類を取り落とした。
「もうやめて! 一体何の嫌がらせなの?! 私を困らせるのが、そんなに楽しいの?!」
「…ごめん」
 はぁっ、はぁっと、アンジェリークは激しくなった息を整えた。つい、激情に身をまかせて思い切りレイチェルにありのままの感情をぶつけてしまった。レイチェルは目を伏せて、書類を拾って机の端でとんとんと整えると、小声で謝罪した。
「…私も言い過ぎた。ごめん。レイチェルに言っても、仕方ないのにね」
 これではただの八つ当たりだ。レイチェルからしてみたら、把握している現状を報告しただけに過ぎないのだろうに。レイチェルはにこりともしないで、書類をアンジェリークの前に差し出すと、さっさと執務室をあとにした。扉に手をかけて、そこで彼女は振り返った。
「書類、置いておくから、署名、しておいてね」
「うん…」
「…ワタシはね、アンジェ」
「何、…」
「アリオスとエンジュが、上手くいけばいいなって思ってるよ。…」
 ぱたん。今の発言に対する返答は必要無いと言わんばかりに、レイチェルは機敏な動きで部屋を出て行った。レイチェルにとっては「アリオスとエトワールが仲が良い」という事実はただそれだけの意味で無く、自分の世界の女王を手元に残しておけるという利点もあるのだ。彼女がエトワールとアリオスの仲を応援しない方がおかしい。そうすれば、いずれアンジェリークはレイチェルの元に戻ってくるのだから。
 ひとり残されたアンジェリークは、ただ呻いた。
「…う…」
 ひどい眩暈で、目の前がくらくらした。この現実を、どう受け止めて良いのか分からず、アンジェリークはこの世のあらゆるものを否定してしまいたかった。不都合な事など何も起こらない未来しか欲しくない。思い通りにならないこの宇宙に、一体女王として君臨する意味が?
「アリオス…」
 彼とエトワールが1度や2度同じ時間を過ごしたというだけの話で、何を自分はこうも狼狽えているのだろう。自分がそうでないというだけで、これからもそういう機会が訪れないと決まったわけでもないのにやっかんで。
「何を考えてるの…私は…」
 いつからこんなに、歪んで汚らしい女王になってしまったのだろう。皆に傅かれる女王陛下は、ここにはいない。いるのはただのアンジェリーク・コレットのみだ。嫉妬にかられてどす黒い感情を覗かせる、ただの小娘でしかない。…
 もういないだろうとは思ったものの、先程までアリオスがいた広場へと目を向けた。そこにまだ、アリオスはいて。職務怠慢ね、そう呟きかけた唇が直前で止まった。

 アリオスはエトワールと談笑していた。

 その様子が、あまりにも自然で。景色に溶け込んでいて。たまに口の端に苦笑を浮かべるアリオスや、たまにエトワールの頭を小突くアリオスを、アンジェリークは瞬きもしないでずっと見つめていた。
 目が離せなかった。
 そこにあるのは平和で、アンジェリークにとっては有害な光景だった。今すぐそこに乗り込んでその雰囲気を破壊し尽したい衝動に、アンジェリークは頭を抑えて耐えた。その場に踏み込めば、それこそその場に自分の居場所が無い事を理解してしまう。エトワールとアリオスの仲は、誰にも引き裂けられない。
 今すぐ盲目になれれば良かった。見えない方が良かった。それなのに。
「…そういう事なのね」
 全てを了解して、アンジェリークは小さく頷いて、目を閉じた。
 女王に付き従うという使命あるいは女王への崇拝は、愛ではない。アリオスがアンジェリークに従う事を決めたのは、愛情からではなかったのだ。愛ではないが、よく似た別の何か。言い換えれば、それは贖罪。彼は今でもアンジェリークに対して、踏み込めない何か特殊な感情を抱いている。それはアンジェリークも気付いていたところではあったが。それは例えばエリスの事であるとか、レヴィアスであった時代に抱えていた事であると思っていた。それだけではない。その関わりがあるからこそ、アンジェリークとアリオスの間の溝はけして埋まる事は無い。永久に無い。
 自分たちとは違い、溝の無いアリオスとエトワールならば、何の問題も無い。アリオスは自らの罪深さに戦く必要も無く、エトワールはアリオスの過去を掘り下げる必要も無い。
 アンジェリークはこれからの未来に頭を巡らせた。視線は何処ともつかない場所を彷徨っている。右手に落ち着くペンは止まったままで、その暗黒の未来に静かに絶望した。

 守護聖が全て集まれば。エトワールの試練が終了すれば。きっと、エトワールはここに残ると言い出すだろう。先程のレイチェルの言葉を反芻しながらアンジェリークは思った。アリオスの隣にいられるのに、この大きな機会をみすみす逃すとは思えない。自分がエトワールであっても、確実にそうするだろう。
 その証拠なら、ここに。窓の向こうに全てはある。アンジェリークは立ち上がると、窓に歩み寄り、その二人をもう一度見た。アリオスの手がエンジュの頭をゆっくりと撫でているのを見て、唇を噛み締めた。千切れる下唇を気にも留めないで、アンジェリークは激情にまかせてカーテンを勢いよく引いた。
 見たくも無いエトワールの笑顔を思い出すに付け、アンジェリークは自分の考えが正しいと判断せざるを得なかった。

 真実は窓の向こうに。

 否定しても拭いきれない悪夢がそこには有る。


つづく


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