逃亡者たち・3


 既に日は落ち、辺りは薄暗くなり、夜の気配を纏い始めていた。
 入り込んだ道は、怪しげなネオン輝く裏通りだった。雨も降っていないのに妙に湿気高くじめじめしていて、道は無意味に濡れてネオンの輝きを反射していた。不愉快になる程不衛生な環境。主星の裏側には、このような世界もまだあるのだ、とぼんやり感じた。あるいは、不適当な女王が即位した事の結果だろうか。橙色のネオンが眩しかった。
 息が、随分と上がってきた。先程自分たちを追っていた者も、いいかげん体力の限界で諦めている頃だろう。もういいだろう、とアンジェリークは見極めて速度を落とした。
「もう、足音は聞こえない。……ようやく振り切ったみたいね」
 3歩後ろでアンジェリークよりもさらに息を荒くしているのがルヴァだった。情けない、これしきの距離で、と軽く詰ったが、期待した程の反応は無かった。二人の手が繋いだままだったのに気づき、わざとしかめ面をして振り解いた。自分から手を差し出した事実には、この際思い出さない事にしておく。
 どうしてあの時、この人の手を取ったのだろう。自分でもその意味が分からなかった。頃合いだと思っていた。彼をそろそろ自由にするべきだと。これからの長旅、同行者がいればいる程不利なのだ。どこかで彼を手放す必要があるとは何度も思っていた。けれど実際には、彼に着替えをさせ、彼の手を取って再び逃亡へとひた走っている。自分の意思が見えなかった。
 きっと、過去の気持ちから。アンジェリークはそう思って無理に納得する事にした。過去に彼に抱いていた気持ちが、ルヴァを振り解く事を拒否するのだ。そんな甘ったるい上に意味を為さない気持ちなど、とうに捨てたと思っていたのに。気持ちは彼の裏切り行為によって冷めたと思っていたのに。
「……う、」
 後ろのルヴァが、ふいに口元を押さえて屈みこんだ。疲労による体調不良だろうか。アンジェリークは問い掛けた。よく見れば、随分顔色が悪い。
「ちょっと、どうしたの」
 吐き気を堪える人間がよくするように、途切れ途切れの呼吸のルヴァ。
「何でも……ないです、大丈夫です。先を急ぎましょう」
「何でもなくないでしょう。そんなに顔を真っ青にして」
「本当に、何でもないんです」
 強情だ。軽く舌打ちした。嘘を吐かれても、こちらが困るだけなのに。
 ふいに思い至った。ここでこの男を捨て置けば良いのでは。彼は既に限界に達しており、これ以上の運動は望むべくも無い。ここの住人たちに発見される頃には高飛び出来る可能性だってまだある。この男をここにひとり残していけば出来る。煌く可能性に、心が躍った。が。
「……出来ないわよ……」
 アンジェリークは呻いた。どうしてか、なんて分からない。同情か、過去の記憶か。理由はどちらでも良かった。けれども、ここにルヴァを捨て置けなかった。
「行くわよ。引っ張ってでも、連れてゆくから」
 強く命令すると。ルヴァは何とか立ち上がり、笑顔を作ってみせた。唇の色が無い。自分はどうあれ、休ませた方がいいようだった。まもなく完全な夜が来る。それまでに今夜の宿泊場所を確保する必要があった。
 しばらく真っ直ぐ伸びた道を進んだ。すると、目の前に十字路が見えた。ルヴァが訊ねてくる。ようやく体調も戻ってきたらしかった。その口調は再び呑気なものを宿していた。
「どうします、あれ」
「どちらに行ったものかしら」
 見れば、右に行く道は大通りに面していて、左に行く道はさらに薄暗く人気の無い道路へと続いていた。真っ直ぐ行く道は今の状態のまま。右に行って、繁華街に出るというのも手だろう。人込みに紛れれば、発見されにくくなる。先程のようなトラブルにさえ気を付ければ、迂闊な事態に巻き込まれる事も無いだろう。左に行けば、自分たちの存在はより目立つ。おきれいな格好をした二人組。明かりの切れかかった電灯の下を歩くのには似合わない。付近の住人には不審がられるだろう。その点繁華街ならばどのような格好だろうと問題は無い。アンジェリークは進路を決めた。
「もう一回街に出るわ。……この街は早く脱出した方がいいみたいね。ロザリアの追っ手が来る前に、もっと辺境へ行かなきゃ。……今度こそ主星を出るってのも手ね」
「この街から早く出るという案には賛成です…ですが」
 何か言いたいらしい。優柔不断そうに目を伏せるルヴァに、アンジェリークの癇癪が破裂した。
「何なの。言いたい事があるならはっきり言ったらいいじゃない」
「いえ……予感に過ぎないのです」
「予感?」
「嫌な予感がします。街には出ずに、このまま左へ行った方がいいでしょう」
「なぜそう思うの」
「ただの予感です、と申し上げたところです」
「……」
 舌打ちした。この男は本当に厄介だ。従うのも無意味に思えて、アンジェリークは彼の意見に添う事なく右の道を選んで歩き出した。
「陛下」
 途端、後ろで軽く問い掛ける声。
「従わないわ、あなたの助言になんか」
「どうしたら、分かっていただけるのです……」
 アンジェリークは歩みを止めない。そのまま、大通りに出ようとしたその時。ルヴァが小さく息を呑む音が聞こえて。
 アンジェリークの手首は後ろのルヴァによって強く引っ張られ、彼女はたたらを踏んだ。
「何……なのっ?! 一体」
 振り返ってみれば、そこにいたのはこれまで見た事が無い程緊迫した様子のルヴァだった。額にうっすら汗をかいている。尋常ではなかった。思わずアンジェリークも冷静になってまじまじと見つめてしまう。
「いけません、陛下。今すぐ逃げましょう」
「何が起きたっていうの」
「分からないんですか?!」
 荒げる声。今まで見た事が無いくらい、度を越して緊張しているらしいルヴァ。
「女王なのに、分からないわけがないでしょう!」
 言外に。女王なら、今の状況が分かって当然だ、という意味を汲み取って。アンジェリークは咄嗟に平手でルヴァを打った。乾いた音が響き、じん、掌に痺れを覚えた。
「馬鹿言わないで。あなたが女王にしたんでしょう。なりたくてなったわけでもないのに、今更女王である事を期待なんかしないでよ!」
 声が震えた。贋物の女王には、今の状況は把握できない。分かりたくても、分かれない。
 悔しくて涙が出そうだった。
「何が……あったっていうの。私には……分からないわ」
「すみません、陛下。私も少し、慌ててしまって、つい」
「……もういいわ。それより現状を報告して。何があって慌てているの」
「赤い……ものが見えました。こちらの繁華街の付近から」
 ルヴァは静かに目を伏せた。灰色の瞳の中には、求める答えは無い。
 やはりアンジェリークには、何も感じられない。
「赤いもの?」
 そんなものは見えない。
「赤いサクリアの輝きです。……ロザリアの追っ手がここまで迫ってきたようです」
「それは誰なの?」
 赤いサクリア。誰であるか、知っているけれど問わずにはいられなかった。
「……オスカーです」
 反射的に、彼の赤い髪を思い出した。
 守護聖自らが追っ手としてアンジェリークとルヴァを追っている。ロザリアがこの一件をどれだけ重要視しているか、よく飲み込めた。ならば、こちらとて易々と捕まってたまるものか。選択を選べなくなった彼等は、左の込み入ったじめじめした通りへと逃げ込んだ。


つづく


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