逃亡者たち・4


 逃げ込んだ先は、埃っぽくてじめじめしていて、およそ良いところとはかけ離れた空間だった。ひた走るアンジェリークとルヴァの姿を、街人と思しき汚れた男が胡乱な目つきで見送った。それすらも、今は気にしている場合ではない。
 走りながら、それでもアンジェリークは先程のルヴァの言葉がいつまでも脳の中にこびりついていた。サクリアの気配が分からない筈が無い、とアンジェリークを糾弾した彼。なぜ、あんなに激昂したのだろう。解せなかった。いつもは、必ず怒るといってもいいタイミングでも決して笑顔を絶やさない人だというのに。例え気分を害しても、ほんの一瞬だけ、しかもやんわりと否定的な言葉を口にするだけだ。怒りやすい体質なら、アンジェリークと行動を共にして逃げるのは1時間と保たなかったとも言える。
 まるで随分と彼の事を理解しているかのような思考。気が滅入った。
 足を止めて、見上げた。ずっと走り詰めで、さすがのアンジェリークも足の限界を覚えた。それに日が沈んでから随分と時間が経った。オスカーは振り切れたかどうか分からない。ルヴァがオスカーを見つける事が出来たと同様に、オスカーもルヴァの事を発見できるのだろうか。だとしたらどこまで行っても無意味だ。
 女王のサクリアを持たない偽者には、サクリアを感じ取る力も無ければサクリアを放つ力も無い。だとすれば、ここでルヴァと別れる事はオスカーにとっての目晦ましになるかもしれない。そうは思うものの、実行に移せるとは思えなかった。
「どこか……休める所を探しましょ」
 隣のルヴァは、もはや何をも言う元気も残されてはいない。肩で荒く息をするのが精一杯。見れば、先程よりもさらに顔色が悪い。頼りなく点いたり消えたりする街灯の下で判断するに、それは土気色と言って良かった。
「ねえ……本当にどうしちゃったわけ」
「何が、です」
「だって、顔色が……」
「だからそれは何でもないと言った筈です。…これからどうなさるおつもりですか」
 はぐらかされた。とにかく、彼がこの事について語りたがらないという事実だけは飲み込めた。怒りをぐっと堪え、アンジェリークはひとつの提案をした。
「どこかで休みたいの」
「宿を?」
「ええ。私たち、もう体力の限界でしょう。どこかでぐっすりと眠るなり休憩するなり、ゆっくりする時間が必要だわ」
「……」
 考えているのか、ルヴァは顎に手を当てる。
「オスカーに追いつかれるかもしれない。休むのは一か八かだわ。でも、休まないで走り続けるにしたって限界がある。どこかでは、休まないと。…言っておくけれど、もし追いつかれたらあなたを盾にしてでも私は逃げるから」
「分かってます。盾になってでも、私はあなたを逃がすつもりです」
 ここでアンジェリークは、先程から疑問に思っていた事を口にした。
「ねえ、あなたにオスカーのサクリアの気配が感じられたのなら、オスカーにもあなたのサクリアの気配が感じられるんじゃないかしら?」
「いえ、それは無いと思います」
 なぜか、いやにきっぱりと否定するルヴァ。
「どうして分かるの」
「今の私はサクリアに敏感な状態だからです。そしてオスカーはそうではない。オスカーには私の気配は分からないでしょう」
「敏感な状態って何。そんなの、聞いた事無いわ」
「私だって体験するのは初めてですよ」
「それって……」
 まさか、と聞き掛けたところで、肩にそっと彼の手が置かれた。
「さあ、雑談はここまで。手頃で、しかも私たちを怪しまずに泊めてくれるような、そんな都合の良いホテルを探しましょう」
 有無を言わさない彼の行動。アンジェリークを置いて、ひとり歩き始めている。こんな事は逃亡を続けてから初めてだった。奇異にさえ写る。
 彼は、何かを隠しているのだ。
 アンジェリークは慌てて彼のあとを追った。



 結局泊まる事になったのは、どう見ても怪しいホテルだった。脂ぎったホテルマンたちの浮ついたサービス。嫌気が差した。けれども、このくらい爛れたホテルである方が追跡者には分かり辛い。苦渋の決断だった。二人とて、こんな低級ホテルに泊まりたくなんか、本当は勿論なかったけれど。
 二人は偽名を使い、一番安価な部屋を取った。
 安価なだけに狭い一室を案内され、小さなバッグをひとつ下ろすとホテルマンが「ごゆっくり」とにやついた笑みで去っていった。ふう、と息をひとつつくアンジェリーク。
「ようやく静かになれたわ」
 部屋を見渡した。深緑色の、厚いカーテン。近付いてそっとまくって見れば眼下に不潔なダウンタウンが見渡せた。通りのそこかしこに缶や吸殻が無造作に落ち、道行く人々の間に生気は無い。主星の裏側を直視して、ぞっとする感情を覚えた。
 先代の女王の頃にも、こんな場所は存在したのだろうか。きっと答えは否なのだ。女王になるべきでない人物が女王になったばかりに、この世界は少しずつ穢れ始めている。
 カーテンを閉めた。もう、見たくはなかった。自分の所為ではないのに、こうやったのは自分の所為でしかない。一因はこの男にもあるというのに。
 部屋の中をぐるりと見渡した。腐ったような緑色の壁紙。藻が絡まったような色合いの2つのベッド。悪趣味な裸婦画。埃っぽい室内。最低のレベルにまで落ち込んだ室内装飾に、吐き気さえ催した。
「何か、買ってきます」
 隣でルヴァが提案した。顔色は戻らない。
 そういえば、とふいに空腹を思い出した。走るか緊張するかのどちらかの数時間を過ごしていたため、夕食の時間を過ぎてなおも夕飯の事など忘れきっていた。相変わらず調子の悪そうなルヴァを行かせるわけにはいかないと、アンジェリークはそれを却下した。
「だめ、私が行く。あなたはここで休んでいればいいわ」
「いえ、陛下はしばらくお休み下さい。……陛下に雑用をさせるわけにはいきません。どうぞ、私におまかせを」
 頑固な男なのだ。普段はとろいのに、こうと決めたら他の人間の言う事など気にも留めない。自分の体調だって鑑みない。アンジェリークは首を縦に振るしか無かった。
 よろよろと、必要な分の金額だけ持って、ルヴァが静かに出て行くのを見守っていた。
 ぱたり、と閉められた扉。なぜだか、聖地にいた頃を思い出させた。
 こんなふうに、いつも自分は置いていかれる側だった。本当は一緒に扉の向こうに行きたいのに、女王だからと誰もが共に歩んではくれないのだ。ロザリアにしてもそうだった。
 孤独な女王だった。



 数時間後。
 苛々と、何度でも腕時計を覗き込むアンジェリークがいた。気が付けば3分毎に時計を確認している自分がいた。
 ルヴァが未だに戻ってきていないのだ。
 擡げる疑問。ルヴァは「食べられる物を買ってきます」と嘘を吐いて、オスカーに会って全てを密告したのではないだろうか。彼の事を信じていないからこそ湧き出る疑問。こんな事なら買いに行かせるのではなかった。今からでも自分だけでも逃げるべきだろうか。
 一方で、冷静な自分が呟いているのだった。
「そんな事、有り得ないわ」
 密告するのなら、いつでも機会があった。しかし彼は決してアンジェリークの傍を離れようとはしなかった。それだけではない。アンジェリークが確実に逃げられるようにしばしば助言さえ与えてくれている。そんな彼が、ここで密告などするだろうか。それに、彼はそれ程器用な人間ではない。人に隠れて何かをするなど、彼の人間性が許す筈が無い。
 彼はきっと、単純にアンジェリークのためを思って食べ物を買いに行っただけなのだ。
 ……それなら、なぜここまで帰宅が遅いのだろう。再び、論理は振り出しに戻る。落ち着かなかった。帰って来てくれれば安心でも出来るのに、それさえない。自分自身が彼の帰宅を望んでいるらしい事に気が付いて、ぞっとした。何を、自分は考えているのだ。
 あの男を憎んでいる。この地位へと自分を押しやった、地の守護聖ルヴァを恨んでいる。その気持ちに嘘偽りは無いというのに。これではまるで、情でも移ったかのようだ。
 帰ってなど来なくとも良い。早く帰って来てほしい。真逆の気持ちがないまぜになり、アンジェリークを混乱させた。自分の、本当の気持ちは、どちらなのだ。
 散々迷った末、ついにアンジェリークは立ち上がった。勿論、逃げ出しに行くのではない。彼を探しに行くのだ。彼が食べ物を探すと言った以上、ルヴァを無視して逃げるというのは寝覚めが悪い。鞄を引っ掴み、扉をがちゃりと開けて。
 2、3歩歩き出したところで、薄暗い照明灯の向こうに何かが見えて、目を凝らした。
 それが何か分かって、アンジェリークは危うく叫び声を上げるところだった。
「……ッ?!」
 掌で唇を覆って、悲鳴だけは飲み込む。驚愕に目を見開いた。
 右手に紙袋を持った、よく知った男が。

 廊下の端で倒れていた。

「ルヴァ!」
 目を瞑った彼が、置き出す気配は無かった。


つづく


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