逃亡者たち・5


 時刻は深夜を回っていた。
 彼を何とか引き摺って部屋まで連れ戻し、無理矢理ベッドの中に押し込んだ。強引に引っ張ったというのに、彼が目を覚ます気配はそれでも無かった。意思の無い肉体がひどく重くて、一仕事完了すると同時にアンジェリークは床にぺたりと座り込んだ。
 顔色の悪さを見るにつけ、自らの責任感の無さを痛感していた。彼の体調の悪い事など、知っていた筈だったのに。自分が外に出るべきだったのだ。あの時振り切って、外に出ていたなら。
 彼はどうしてしまったのだろう。考えてみればこの逃亡を始めてからの彼の体調は良いとはいえない。顔色が悪いのを、吐き気を堪えているのを、知っていたのに。それだけではない。オスカーのサクリアの気配を嗅ぎ取ったと彼は言っていたけれど、どう考えてみても常人に出来る事ではない。アンジェリークが偽者だから分からないという事だけが、原因では無さそうだ。
 聖地を離れた所為か、とも思ったが、その恩恵を同じだけ長く受け続けてきた自分に何の影響も無いというのもおかしい。理由は未だ深い闇の中。しかし、彼の口から全てを知るのも遠くは無いだろう。
 ルヴァの胸が、薄く上下に動くのを見ながら、ふと思い至った。
 彼をここに置き去りにして逃げるべきだ。反射的に浮かんだ考え。指先が冷たくなるのを覚えた。自分ひとりだけでも、逃げるべきだ。逃げる事は自分が何より一番望んだ未来。ロザリアの元には帰りたくない。偽者の女王としてこれ以上この宇宙に君臨するなど真っ平だ。それなら、取るべき手段はひとつしかない。
 彼の命ひとつを犠牲にしてでも、アンジェリーク・リモージュは逃亡をはかるべきだった。
 逃げるのだ。逃げるのだ。強迫観念のように、それはアンジェリークを苛んだ。
「……ッ」
 唇を噛んだ。逃げたい。その気持ちも、心からのものであるのに。
「逃げる事なんて……出来ないわ……」
 吐き捨てた。
 見つめる先には眠れる地の守護聖。短い間とはいえ、二人きりで過ごす時間の所為で情でも移ったか。そんな想像をするくらいなら、気でも触れてしまった方がましだった。
「どうして逃げられないの……!」
 アンジェリークは頭を抱えてその場に突っ伏した。逃げるために、ここまで来た。何を今更二の足を踏んでいる。彼自身も、自らを盾にしてでもアンジェリークを逃がすと約束してくれているのだ、迷う必要も無いのに。
 それもこれもみんな、この男がいたから。あの夜に、偶然出会ってしまったのが、全ての間違いだった。どうして、振り切ってしまわなかったのか。あの時には、それが最良の選択だと思ったけれど。
 どうして今、自分が逃げられないと思っているのか。突き詰めれば、こうなのだ。
 彼をひとりには、出来ない。今にも死にそうな顔をして、それでもアンジェリークのためにひとり外に出たルヴァをそのままにはしておけないのだ。それは断じて愛や恋や、そんな下らない言葉で表現できる気持ちではない。そもそも、自分はルヴァを憎んでいるのだ。
 何度でも深々と考える。自分に言い聞かせている。「彼を憎んでいるのだ」と。

 それこそが、彼を既に憎んではいない証拠なのだという事に、まだアンジェリークは気付けずにいる。



 彼が目覚めるまで、まだしばらく時間が必要なようだった。歩き詰めで、起こすのも哀れに思えてアンジェリークは彼をしばらく放っておく事にした。
 手持ち無沙汰になり、彼が命からがら持って帰ってきた紙袋を開いてみた。一体どこで買ってきたのか、紙パックのジュースとサンドイッチがそれぞれ2つずつころりと出てきた。それを見た途端、急速な喉の渇きを覚えて、ぷつりとストローをさして一口飲み干した。
「……美味しい……」
 どうして、自分自身だって体調が悪い事くらい気付いていただろうに、ひとりで買い物に出かけたのだろう。
 それとなく彼の表情を窺った。こうして休憩を挟んでいるにも関わらず、顔色は一向に良くなってはいなかった。倒れていた彼を運んだ時にも気づいたが、彼の体温は随分と低下している。死人のような冷たさに、一瞬ぞっとしたのを覚えている。体調が悪い事。サクリアを感じられると言った事。気にかかる事が、次から次へと湧いて出てきていた。
 ただの体調不良ではないのだ、きっと。彼が起き出したら、今度こそ問い詰める必要があった。これで彼が取り返しの付かない事にでもなれば、守護聖を統括する身として自分の監督不行き届きだ。
 今更女王ぶっている自分に気が付いて、薄ら笑いを浮かべた。
「……馬鹿みたい」
 女王が嫌で、たまらなくて。重い責任に、毎日が苦痛で。ロザリアの意志が見え隠れするのに、耐えられなくて逃げ出した筈だった。
 それで今、もう少しで自由に手が届こうという時になって女王としての責任を思っている。
「……何してるのかしら、私……」
 深いため息をひとつ、ついた。
 ため息に自分では無い声が被さった。
「……陛下……?」
 あ、と小さく声を上げた。ようやく起き出したらしい。
 慌ててベッドに駆け寄ると、灰色の瞳が天井の辺りを眺めていた。焦点は微妙に合っていない。
「……どうして、ここにいるんでしたっけ……」
「あなた、廊下で倒れてたの。ここまで連れて来て、しばらく寝かせておいたわ」
「……すみません……」
「謝罪なら、もう聞き飽きたわ」
 この逃亡を始めてから、彼は謝ってばかりいるような気がする。
 謝罪より、釈明が欲しかった。彼のこの弱弱しさは異常だ。
 握り拳を作った。もう彼に逃げ道は必要ない。告白を聞くまで、彼をもう一度睡眠へは向かわせない。
「それより、私に何か、言う事があるんじゃないの」
「陛下……」
「喋るまで、寝かせないから。起きなさい」
 言葉の強引さとは裏腹に、アンジェリークは起き上がったルヴァに対してジュースを差し出した。
「買って来てくれてありがとう。おかげで助かったわ。……ほら、飲みなさい」
 ぶっきらぼうに感謝した。この言葉をどう受け取ったのか、彼は少しだけ微笑んだ。
 ジュースを受け取って、しかし飲む気が無いのか両手の中にジュースを収めたまま、ルヴァは下を向いた。起きてから、一度もアンジェリークとは目を合わせようとはしない。
 とうとう倒れてしまったか、と彷徨う視線が何より雄弁に語っていた。
「話しなさい。あなたの体には、一体何が起こっているの」
 命令。女王の指図に、逆らえぬ者などこの世には存在しない。
 女王の権利を行使する事に、今躊躇いは無かった。ルヴァが口を開くのを見て、来る、とわけもなく直感した。彼の告白は、彼にとってはつらいものだろう。そして告白を受け取るだろう自分自身はなおさら。
 それでも聞かなければならない。なぜなら偽者でも、この人によって祭り上げられた地位でも、自分は女王だから。一度は捨てたものを、この人間のために再び拾う事を、アンジェリークは強く望んだ。
「……陛下」
 からからに乾いた声で、次に彼が呟いたのはそんな言葉だった。
「あなたに告白しなければならない事が、あります」
「それ、は、」

「私の体内に、既にサクリアは殆ど残されていないのです」

 逃亡の終わりは近付き始めていた。


つづく


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