夜の帳の中、怪人は目を覚ます(10)


 森の湖からの帰り道、最初に出会ったのはロザリアだった。憔悴した面持ちで、それでも背筋を正してアンジェリークを待っている。昇り始めた朝日の所為ではっきり分かるが、彼女は眠たげな瞼を隠そうともしない。
「…ロザリア?」
 随分意気消沈しているらしいロザリアに、そっと声を掛けた。昨晩ロザリアの身に何があったのか、手に取るように理解出来た。一晩中眠れず、迷い続けてでもいたのだろう。それでも一晩アンジェリークの事を庇い続けてくれたに違いない。でなければ一晩中も怪人と一緒にいられるわけもないから。
「あんたが逃げ出した所為で、一晩中身の振り方を悩む羽目になったわ」
「元はと言えばロザリアがお逃げなさいなんて言うからでしょうに」
「あんたの所為よっ」
 分かっている。ロザリアのこれは本心ではない。
「一晩中あんたと口論してるみたいに見せかけるのがどれだけ大変だったか」
「でもここ出る時には気付かれたんでしょう? どうやって振り切ったの?」
「あの人には、ジュリアス様の所へ行って報告なさいって言ったわ。アンジェリークはとっくの昔に逃げ出したわよって」
 ロザリアの心情を思うと、申し訳ない気持ちになった。つまるところ、彼女はジュリアスでなくこの自分を選んでくれたのだ。きっとロザリアに「次」は無い。ジュリアスからの厚い信頼を蹴ってまでも自分との友情を取ってくれたのだ。
 そして自分にも、きっと「次」は無い。あらゆる意味で、これが友達らしい最後の交流なのだ。これだけでも十分、そう思う事にした。ロザリアは完全な味方ではなかったが、完全な敵でも無かった。少なくとも、自分と怪人の間柄を知ってからはこちら寄りの選択をしてくれるようになったのだから。
「ロザリア、感謝するわ。当分は大人しくしてるから、許し…」
 ぷつり、何かを言いかけて、しかしその感覚に遮られた。ロザリアが不思議そうにこちらを見つめている。胸が苦しいような、切ないような、そんな何かが通り過ぎていく。
「…アンジェリーク?」
「――嫌ッ、何なの?!」
「アンジェリーク、一体どうしたというの」
 突然に押し寄せた衝動に耐え切れず、アンジェリークはその場にぺたんと座り込んだ。心臓の辺りを駆け抜ける何か。言葉には出来ない衝動。光に目が眩んで、何も見えなくなる。
「だめ…っ」
「アンジェリーク! しっかりして! 一体、一体どうしたの!」
 脳裏に浮かぶ像が次第に形を成して行く。じわじわと水が染みるように不快な像を形作っていく。緑色。大陸。エリューシオン。爆発的に増える人口。狂ったように笑い続け、子を成し続ける民。これは妄想なのか。
 口を塞いで、瞬間的にやってきた嘔吐感をやり過ごす。妄想なんかではない、これは現実に起こっている何かだ。目の裏に浮かぶこの像は、夢幻ではなくエリューシオンに何かしらの危機が起きていると考える方が自然だった。夢と言い切るのには、あまりにも生々しすぎる。他の誰でもない、エリューシオンを今まで見てきた自分だから分かる、感じられるのだ。
 どんな手段であれ、人口が増え建物が中央の島に辿り着いた方を女王とする。その大原則を頭の隅に思い描いた。どんな手段であれ。過剰なサクリアに人々が酔い、狂い、元に戻らなくても。今エリューシオンで起きている状況は、正しくこの「どんな手段であれ」に合致する。
「何が…起こってるの!」
「アンジェリーク…?!」
「私のエリューシオン…何が、起こってるの…!」
 未だかつてこんな事は無かった。脳裏に大陸の様子が見えるなど。目を閉じれば、眼前に様子がはっきりと見えた。民はこぞって中央の島へと駆けている。もうすぐ中央の島に辿り着くだろう。これは一体何なのか。自分が女王になるのだとしても冗談が過ぎる。
「アンジェリーク、アンジェリーク!」
 強く自分を揺さぶる声にようやくアンジェリークははっと気が付いた。なぜ自分だけ?
「どうしてロザリアは、何とも無いの」
「何を言っているのか分からないわ。あなたやっぱり、怪人に何かされたんじゃ…」
「――かいじん」
 アンジェリークは目を見開いた。異質ながらも違和感の無いこの力、馴染みのあるこの力。これは地のサクリアだ。あの人の力。
「でもどうして…ッ」
 あの人は贋物だと言った。ならばこのような大量の力をしかも一度に送れる筈もない。ぞくぞくと何かが這い上がるような感覚。抑えるために、自分の腕で自分の体を強く抱き締めた。
「行かなきゃ、私のエリューシオンが、…」
「何処へ行くって言うの! こんな時間だもの、何処も開いてないわよ?!」
「王立研究院へ。きっとパスハ様が既に道を開く準備をなさってる…。こんな、異常、事態」
 ふらふらと何処でもない一点を見つめたまま、夢遊病患者のような足取りでアンジェリークは歩き出した。向かうは王立研究院、降りるはエリューシオン。
 何か、大変な事が起こっている。



 王立研究院では既に右も左もごった返した混乱となっていた。研究員たちの人込みを掻き分けながら、一際目立つ水竜族の青年を探す。脂汗をかきながら視線をあちこちに巡らせる内に、パスハの方が自分を見つけて駆け寄って来た。
「アンジェリーク! あれは一体何なのだ…!」
 ただ首を横に振るしかない。自分にも何が起こっているのか、まるで分からないのだ。
「遊星盤を…貸して下さい。私は私の大陸を…見なくちゃ…」
 パスハはもう何も言わず、遊星盤を手渡した。即座に乗り込めば、エリューシオンへと真っ逆様に降下していく。衝撃に目を瞑ってやり過ごし、次に目を開けた時に視界に入ってきたものにアンジェリークは驚愕した。
「これ…は…っ」
 息を飲む。これは一体何なのか。逸る心臓の辺りを手でぎゅっと押さえた。噴き出す汗。
 ばたばたと恐ろしい速度で出来上がっていく建物。神官たちはただ人々が増える事のみを願い、祈り続けている。天使様、とぴかぴかの壊れた笑顔で。人々は中央の島に辿り着くのを人生の目的とし、それ以外が全く目に入っていない。老若男女、区別無く中央の島で走り続け、途中で体力を失った者は無残にもそこで朽ち果てていく。その死体の上を更に人々が駆け抜けていく。止めさせようと手を伸ばしたが、サクリアの影響を特に強く受ける神官たちは完全に酔った状態になっており、もはや役には立たなかった。そのぞっとするような可愛らしい笑みに言い知れぬ恐怖感を覚え、アンジェリークは伸ばした手を引っ込める事しか出来なかった。
 ――こんなものは、狂っている。
 溢れ出る地のサクリア。明らかに許容量を超えた量のサクリアは全てが民に供給され、それでもなお溢れて中空に浮かんでいる。エリューシオンの空には澱みさえ。
「これが…あの人の、力?」
 迫り来る吐き気を何度も堪えながら思い返す。彼はアンジェリークを女王にすると言った。その結果がこれなのか。守護聖が本気で、手加減無しにサクリアを送れば、世界はこうなるのだ。いや、彼は偽者なのだからこの程度で済んでいるのかもしれない。本物であったらどうなっていた事か。
 確かにこれによってエリューシオンは中央の島に到達するだろう。この速さで行けば、アンジェリークが女王になるのも時間の問題だった。これであの人を救える。そうは思うものの、何処かすっきりしない面持ちでアンジェリークはエリューシオンを見つめ続けていた。
 体全体が、何だか重かった。
 風邪でも引いたかのように、微熱がある。一晩中外にいたから、本当に風邪を引いたのかもしれない。熱の所為か、上手く考えがまとまらなかった。怪人に意義を問い質したかったが、自分に監視がぞろぞろと付くだろう事を考えるとそれもしばらくは不可能だろう。
「こんな事って…」
 パスハになんて説明したらいい。それも分からなかった。怪人は本当にここまでする必要があったのか。それも分からなかった。

 地上に戻ってみれば、そこには何か言いたそうな顔をしたパスハの姿があった。それでもアンジェリークにだって何も分かってはいないのに、何も言えるわけがない。出来るのは状況説明のみだ。
「アンジェリーク、エリューシオンでは何が」
「…みんなが、中央の島を目指しています。脇目も振らず、ただ天使の願いのみを叶えるために動いてます」
「何だと?」
 パスハは苛立たし気に呻く。
「ごめんなさい…私にも、分からないんです。どうしてこうなっているのか…」
 怪人にかかる負担の事をふと思った。あれだけ大量のサクリアを放出すれば、一体その本人にはどういった影響が及ぶのだろう。サクリアを体内に持つという事、それを放出するという事、そのどちらの体験も無いアンジェリークには理解出来るべくも無いが、それでも普通のままでいられる保証は何処にも無い。きっと首座の守護聖なら、今の状況について、そして怪人の容態についても教えてくれるだろう。例え教えてくれなかったとしても、それはそれで忌むべき事態だというのは推察出来る。怪人の元には戻れない今、自分に出来る事は少ない。
 アンジェリークはパスハの元から去るとジュリアスの執務室に向かうため、研究院の扉を勢いよく開いた。
 そしてそのまま、その場で硬直した。
「これは…」
 目に写る、全てのものがサクリアの影響下にある。先程見たばかりだ、すぐに分かる。これは地のサクリア。どうして飛空都市にまで、彼のサクリアが満ちているのか。瞬間頭の中に閃くものがあって、アンジェリークははっとした。
 サクリアが与えられたのはエリューシオンだけではない、神鳥の宇宙全体だ。その大規模なやりように、アンジェリークの服の下はじわじわと汗で滲んでいく。怖い。次に思い浮かんだのは、そんな感情だった。怪人は一体どれだけのサクリアをこの宇宙のために差し出したのだろう。
 これでは、彼は干からびてしまう。彼は死んでしまう。

 空を見る。とくとくと動く心臓。アンジェリークの心に微かに浮かび始めた予感。
 尚も地のサクリアがエリューシオンに、そして女王陛下の治める大地に降り注いで行く。

 確信がある。これで自分は宇宙の女王となるだろう。けれど。…

「行かせやしないわ…」
 彼を、その向こう側になど、行かせない。彼を生かしたい、ただそのために自分は女王である事を望んだのだ。このままサクリアの放出を続ければ、彼の生存は厳しい。彼を救わなければ。アンジェリークはきっと前方を見据えると、走り出した。彼を止めなければ。
「そうよ、止まってる場合なんかじゃない。誓ったもの、あなたをきっと守るって! …」
 走りながら、叫んだ。言葉にしていなければ、不安で仕方なかった。がちがちと歯の根は合わず、走り出したその先から躓いて転んでしまいそうな程足は震えていた。
 向かうは、聖殿。その一番奥にきっと彼はいる。


つづく


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