夜の帳の中、怪人は目を覚ます(11)


 アンジェリークはただ駆けている。
 向かうは、聖殿の中心部分にして、秘密に包まれた場所。守護聖達以外が足を踏み入れるのが許されないその場所にて、サクリアが日々放たれているという。守護聖達に話を聞くまでその存在すら知らなかったアンジェリークではあったが、今はその中途半端な情報を頼りに聖殿を駆けるしか無かった。守護聖を誰か捕まえて聞き出すなんて、まどろっこしい方法は取っていられなかった。それにはどう考えても時間が圧倒的に足りなかった。
 暗い聖殿の中を駆け抜ける。どちらへ向かえばいいのか、走り続けるうちに次第にわかり始めているのにアンジェリークは気が付いていた。なぜか分かる。どちらの方向からサクリアが発生しているのか、何となくだが分かる。目覚め始めている女王の力がそうさせているのだ。
 息を切らし、走り続けていると見知った影を横切った。無視して通り過ぎようとした瞬間、鋭い声がアンジェリークに届いた。
「何処へ行くの」
 立ち止まって振り返れば、そこにはロザリアがいた。彼女は厳しい目付きでこちらを見据え、ちらりとも視線を動かそうともせずに仁王立ちしている。アンジェリークは即答した。
「彼に会うわ」
「…分かってるんでしょう、わたくしはあんたを止めに来たのよ」
 今朝とは全く正反対の意見。アンジェリークはロザリアの中にある混沌を感じて微笑んだ。ロザリア自身はこの矛盾に気が付いているのだろうか。あるいは彼女も地のサクリアに酔って正気を手放し始めているのかもしれない。
「悪いけど、問答してる暇は無いの。私を行かせて、ロザリア」
「させないわ。部屋にお戻りなさい。今ならきっと間に合うわ。今引き返したらきっと陛下もお許し下さって、女王試験を続けられる。怪人の事などどうか忘れて、部屋に戻って。お願いよ、アンジェリーク。でなければ、わたくしはジュリアス様に報告しなければならなくなる」
「すればいいわ」
「陛下にだって、告げ口するわ」
「すればいいわ」
「…どうして!」
 堪えきれなくなったように、ロザリアは叫んだ。
「ロザリアが報告しなかったところで、もうきっとみんな気が付いてる。私は誰よりも先にあの人の元に向かわないと。陛下やジュリアス様じゃ、彼に何をするのか分からないから」
「だからって、あんたが自分の立場を悪くする事なんかないのに!」
 どのみちもう引き返せない。ここで怪人を止めても処罰は免れないだろう。良ければ女王候補剥奪、悪ければ消されるのみだ。
 気付けば、ロザリアは興奮のあまりぼろぼろと涙を零していた。アンジェリークが急いでいるのを知っていて、なお呟き続けている。
「やっと…分かったのよ。あの噂の怪人の正体に。あんたはずっと知ってたんでしょう? わたくしはこんな事態になってようやく気が付いたの。あんたの説は正しかったんだわ。これがあんたの言う、地のサクリアだったのね? それがどうして隠匿されているのか、それは分からない。でも公表されていない以上関わってはいけないという事は理解出来る。だからわたくし、あんたを止めに来たんじゃない。今進んだら、あんたの立場は悪くなるばっかりよ。お願い、もうこれ以上は行かないで」
 大量のサクリアに酔いながらも、ロザリアが口にしているのは正論だ。まさかロザリアからものを懇願されてるとは思っていなかったアンジェリークは、驚きに一瞬だけ目を見張ったもののすぐにいつもの表情に戻り、ただその言葉だけを口にした。
「…ロザリア、ありがとう」
 聞こえるか聞こえないかくらいの囁き。それを口にするのと同時にアンジェリークはロザリアを振り切って走り出した。背後からアンジェリークを罵る声が聞こえたが、もう立ち止まってはいられなかった。
「卑怯者ッ! そんな事言われたら…あんたを…わたくし、あんたを止められないじゃない! だからそんな事を言うのね?! わたくしを止めるために! 卑怯者…っ。お願い、止まってよ!!」
 悲鳴に似た懇願は、アンジェリークの頭の中でいつまでも響き続けていた。



 息を荒くしたまま、ただアンジェリークは駆け続けている。既に両足はひどい疲労を覚えていたが、無視する。まともに付き合っている暇は無かった。時間ごとに、自分がどちらに行けばいいのか分かる。奥へ向かえば向かう程聖殿は日の光の届かぬ暗い領域になっていくが、アンジェリークの足取りは変わらなかった。そこにあるのは暗闇といってもいいほどの空間だったが、怪人との逢瀬を繰り返したアンジェリークはこれしき恐怖でも何でもなかった。細長くあちこちに延びている廊下を曲がったところでアンジェリークは強い調子で呼び止められた。
 ロザリアではない。それよりももっと厄介な存在。
「――アンジェリーク」
 無視して先に行く事も出来た。が、アンジェリークにはそれが出来なかった。
「…ディア様」
 そこにいたのは、第255代女王の補佐官・ディア。険しい表情のまま、ディアは続けた。アンジェリークも自然とそちらに向き直る。立ち止まれば、瞬時にふくらはぎの辺りにどっとした疲れを覚えた。
「行ってはなりません、アンジェリーク」
「もう私は、誰の指示にも従いません。私は私の意志で、前に進みます。自分の気持ちに正直でありたいから、あの人を救いに行きます。あなたが行くなと言っても、もうそんなの聞くつもりはありません」
 ディアはふるふると首を横に振る。アンジェリークの意見など元より聞いてはいないのだ。
「あの人の最後の祈りを、邪魔立てしてはなりません」
 いかにも苦々しそうに、ディアは告げた。
「…でも、彼は本当の守護聖じゃない! ディア様だってご存知の筈。あの人が祈らなきゃならない理由なんて何処にもありません。いくら私を女王にするためだって言っても、あんなの…!」
 興奮気味に話すアンジェリークに、ディアは冷たい視線を投げかける。
「だからこそです、アンジェリーク。そもそも考えてご覧なさい。なぜ女王交代という儀式が行われたと思っているのです。女王の力の衰え…それだけではなく、徹底的に不足した地のサクリアによるところが大きいのです。それら全てを新しき女王のサクリアによって補うために、女王交代が決定されました。…けれど今ここで彼が自らの持つサクリアを全て大地に降らせれば、当面の問題は回避されます。女王は代わっても、すぐにその力の全てを大地に取り込まれる事はありません」
 だから怪人はエリューシオンだけでなく神鳥の宇宙全体にサクリアを降らせた。256代女王となるアンジェリーク・リモージュの御世を長いものとするために。アンジェリークを一時的な女王にではなく、恒久的な女王にするために。そのためならば、エリューシオンの民たちの命さえ踏みにじった。脳裏に浮かぶのはエリューシオンの民たちの壊れた笑顔だ。補給されているのは偽物の地のサクリアであるのに。
 ただひとり、アンジェリークを女王にするために。アンジェリークの願いを叶えるために。
 けれど、それではアンジェリークの本当の願いは叶わない。襲い来る眩暈に、アンジェリークは倒れそうになりながらも言葉を続ける。
「私が生き、彼が死んで、そのバランスでこの世界を守る…私はそうじゃない道が欲しいです」
 それがどんな道か、それは分からない。今は走り続ける事しか出来ないから、それをするしかない。ディアが憐憫の情を込めてこちらを見つめるのが、不快だった。
「アンジェリーク。聞かせて。なぜそこまであの怪人に入れ込むのか」
「理由なんて…今更…」
 アンジェリークはその質問には首を軽く振って答えないまま、ディアに呟いた。
「命を…犠牲にすると言ってました。本当の守護聖でない者がサクリアを放つという事は」
「…おそらく彼は死ぬつもりです」
 顔面から、血の気が引いた。おそらく彼は死ぬつもりだ。アンジェリークを守るため。いつか彼が言った、「あなたを女王にしてみせます」という言葉。あの言葉を現実にするため、彼は動こうとしている。彼がいてこそ望む未来だったのに、どうして食い違ってしまうのか。下唇を強く噛んだ。ともかくこうしてはいられなかった。予測は現実のものになろうとしている。
 彼は殉職する気だ。
「どいて下さい!」
「アンジェリーク、いけません!」
 勢いよくディアを突き飛ばすと、アンジェリークはただひたすらに走った。サクリアが放たれるのは聖殿の奥だ。そこまで駆け抜けるしかない。
 …必ず。死なせはしない。一緒に太陽を見るまでは。

 聖殿を駆け抜ける途中で、何度も脱力感と強い吐き気に襲われた。無視して、ひたすらに走る。怪人がサクリアを送り続けている。それに、女王になりかけの体が敏感に反応しているのだ。
 目頭が熱くなる。堪えきれない、噴き出すような思いを言葉にする。分かっている、彼が本気で偽物のサクリアを放出すればこの世は維持出来るという事を。彼が死ねば、この世界は救われる。でも、彼を救わない世界など要らない。女王としての自覚が足りないと謗られてもいい、でも自分は彼を救えるのならこの世界が滅んでもいい。
「私の…欲しい世界は…、あなたの生きる世界よッ!」
 ついに辿り着いた。激しく呼吸を繰り返しながらその扉を見る。薄く開け放たれた扉の隙間から、槍のように金色の光が差し込んでいる。地のサクリア。
 間髪入れずにアンジェリークは扉をこじ開けた。
「――駄目!」

 扉を開けたその瞬間にアンジェリークの視界に入ってきたものは、背中から崩れ落ちる怪人の姿だった。


つづく


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