夜の帳の中、怪人は目を覚ます(9)


 森の湖に着く頃には、いつもの時間帯になっていた。いつも怪人と会っていたのと、同じ時間。こうしてまた太陽の沈んだ時間帯に会えるとは思っていなかった。知らず、心臓は逸った。ふいに怪人とアンジェリークの関係を怪しむ声が脳内で繰り返されて、アンジェリークは耳を塞いだ。そういう事ではないのだと、思う。では何なのかと訊かれても、答えられない。怪人と自分との関係は、上手く言葉には出来ない。言葉にしなくてもいいのだと、思っている。
 荒く息を吐いて、湖周辺を覗き込む。そこに、初めて会った時の姿とすっかり同じままの怪人がいた。ランプの明かりひとつで、本を読んで。見えるのは白い仮面。
 呼び掛けようとして初めて気が付いた。自分は怪人の名さえ知らぬのだ。怪人の注意を引くためにわざと足音を立ててそちらに向かえば、怪人は目を見開いて驚いていた。
「来てはならないと、ジュリアスから言われていたのではないのですか」
 会うなり、突然そんな事を言う怪人。彼にもジュリアスからのお達しがあったらしい。
「でも…、だけど。あなたなら、分かるでしょう? 来ずには、いられないって事くらい…」
 それなら怪人だって、なぜ森の湖に来ているのか。アンジェリークと会えるかもしれないという期待を抱いていると、思ってもいいのだろうか。
 怪人に向かって一歩ずつ進みながら、アンジェリークは呟いた。
「教えて…あれはあなたね」
「何の事です」
「エリューシオンの育成の状況が変なの。順調すぎるのよ。それに比べてロザリアのフェリシアといったら、候補の作った大陸だというのが信じられない程子供じみてる。あなたが私のエリューシオンに力を分けてくれたのね」
「私は…どうしたものか、迷っていたんです。私に何が出来るのか、あなたに会えなくなってから考えてみて…あなたが女王になるのなら、その手助けが出来ればと、…思ったんです」
「変なの」
 思わず苦笑した。怪人を助けるために自分は奔走しているのに、怪人はそんなアンジェリークを助けるために奔走している。終わりの無い螺旋。アンジェリークはくすくすと笑い続けたまま、怪人の隣に腰掛けた。
「何がです」
「私が女王になるのはね、結構邪な理由なの。女王になりたいから女王になるわけじゃないわ。手助けはありがたいけど…私の邪な動機に付き合わせちゃ申し訳ないわ」
「そうなのですか?」
「そうなのよ」
 話したい事はたくさんあった。訊きたい事もたくさんあった。けれど、それらは全て本人に会った瞬間になぜか霧散してしまった。隣にいるだけで満たされて、疑問であった筈のものがどうでもよくなっていく。
 二人を照らすのはランプの温かい蜜柑色の光。白い仮面も否応なしに蜜柑色に染めていく。頼りない光でも、二人には十分だった。
「みんなひどいのよ。ジュリアス様なんて特に。補佐官まで付けて私があなたの所に来ないように仕向けるの。あなたが何したっていうのよ、ねえ」
「…ええ…」
 怪人から返ってくるのは鈍い返事。元より相槌など期待していない。
「私…陛下の事が信用出来ない。ディア様の事も。疑心暗鬼になってるのだとは思う。でも私、問題になるような事なんてしてない。陛下が秘密にするからって、暴いてばらまこうなんて思ってない。そんなにあなたに会うのは、いけない事なのかな…」
「…もう、私には…会いには来ない方がいいでしょう」
「何でそんな事、言うのよ。私はあなたに会いたい。だから来たのよ。あなたも、心にもない嘘を吐くのはやめて。じゃなかったら、どうしてここで私を待っているのよ」
「…」
 返す言葉も無いようで、ただ項垂れる怪人を見て、アンジェリークは言い過ぎたかと焦る。どのように言葉を掛けて良いか、迷っているうちに怪人の方が頭を上げてこちらをじっと見つめてきた。
「あなたの言葉や行動はいつも真っ直ぐで…私は圧倒されるばかりです。…どうしてそんなに、強いんですか。私は…私は、いつも弱くて…自分が情けなくなります」
「あなたは…弱くなんて、無いわ。弱かったら私と会うために夜中に部屋を抜け出して来たりしないでしょう? 叱責されるのを覚悟で、ここにやって来たんでしょう?」
「あなたは…私が、弱くないと仰るんですか?」
「そうよ、弱くなんてない。弱いんだとしても…それをどうにかしたい、克服したいって思ったから今ここにこうしているんじゃないの? だから私と会ってくれるのではないの?」
 克服。その言葉を聞いた途端、怪人はぎょっとしたように身を引いた。
「そうですね…克服。そうすればきっと、罪を暴く強さも…。アンジェリーク、あなたはいつも私に強さをくれますね。…手を、繋いでもらってもいいですか。そうすれば、私もあなたのような凛とした強さが手に入るような気がするのです」
 彼の言葉に従い、怪人に向かい合い両手を差し出した。それは怪人の大きな掌であっという間に包み込まれる。今まで意識しないで来たけれど、この人は随分手も大きいし、体温も温かくて優しい。そこには温もりが有る。
「…告白させて下さい、私に。罪を暴く強さを、私に」
 怪人の両手は微かに震えている。
「無理に…話す必要なんて無いのよ? あなたが話したくなければ、私はもう聞こうとは…」
「いえ、…あなたが女王を目指すのであれば、どうしても今聞いてもらいたいのです」
 次に怪人が口を開いた時、そこから漏れたのは謝罪の言葉だった。
「ごめんなさい」
「なぜ謝るの?」
「私はあなたに、嘘を吐いていました。…女王が私を拒絶したのは、私が醜いからだけではないのです」
「…?」
「…最後の告白をします。私は本物の守護聖ではありません。本物の守護聖は私の弟…叔母の本当の子供です。我が子を聖地に奪われる事を恐れた叔母は替え玉という手段を思いついたのです」
 合点がようやく言った。彼が隠していた罪。女王やジュリアスが頑なに隠していた秘密。この事だったのだ。それと同時に、やり場の無い怒りに襲われる。
「どうして、断らなかったの!」
「最後の…恩返しだと思えば…」
「そこまでされて、どうして恩返しだなんて!」
「私は…弱いから…嫌だとは、どうしても言い出せなかったんです」
 事の次第が飲み込めたような気がした。犯罪に加担した怪人は、良心の呵責に悩まされ続けてきた。だから目を伏せ続けている。「罪」だと連呼する。彼自身にも罪があるとはいえ、虐待されてきた彼には叔母の提案を呑む以外、犯罪の片棒を担ぐ以外の選択肢は元から無かったに違いない。誰が彼を責められよう。
 女王がああも必死になって秘密にするのも理由が分かった以上頷ける。怪人の存在を露呈させる事は女王の権威の失墜を意味する。本物と贋物の区別も付かない無能の女王と非難されても何も言い返せないのだろう。
「能力の無い者が守護聖になっても詮無い事、命を切り崩してサクリアらしきものを生み出しているに過ぎません…私はまもなく死ぬのです」
「死ぬなんて、止めて!」
「仕方ないんです。私の弱さはやはり罪で、罪には罰が必要なのですから」
「あなたは…弱くなんて…」
 アンジェリークのか細い主張は、しかし怪人には届かない。怪人は何処か虚ろな口調のまま、淡々と語り続ける。
「私は守護聖となったその日、すぐに陛下に謁見しました。…陛下は白い仮面をつけた私を一目見るなり叫んだのです。本物ではない、と。見抜かれた私は項垂れるばかりでした。あとから聞いたところでは、叔母とその息子は私を引き渡したあとどことも知れない場所へ行ってしまったそうです。…身元は今でも分かっていません。本物でない私は、再び地のサクリアが現れるまでここに幽閉される事になったのです」
「どうして…帰らせてもらえなかったの?」
「守護聖としての血が、いくばくかは私にも流れています。とはいえ結局は身代わり程度の意味しか持ちません。しかるべき人間が見れば、私の正体は容易く見破られるでしょう。神鳥の聖地のスキャンダル。それを表に出さないために陛下は思い切った策に出ました。全ての地のサクリアに関する資料の廃棄。地の守護聖も、地のサクリアも、全ては元から無かった事にされたのです。…次代の地の守護聖が出現するまでの、繋ぎとして私はここに幽閉される事になったのです」
「…」
 この怪人も自分と同じだ。新たな地の守護聖が出現して怪人の存在が用済みになればおそらく彼は消されるだろう。スキャンダルを表に出さないために。
 やはり、どうあっても自分が女王になるしかない。
「ようやく…ようやく、言えました…」
 俯いて、小刻みに震える怪人を、見ていられなくて。アンジェリークは怪人の手を離すとそっと彼の体を包み込んだ。言葉ならもう要らない、全て分かった。自分はこの人のために女王になる。きっと守ってみせる。
 アンジェリークと怪人は一晩中そうして抱き合い続けていた。

 午前4時の過ぎの気温は低い。ぴったりと肌を合わせながら、アンジェリークと怪人は尚も森の湖にいた。所詮服越しに肩と肩を合わせているに過ぎないのだが、それでも十分に心地よかった。
「アンジェリーク、ひとつだけ訊かせて下さい」
「…ん」
「あなたは女王になりたいですか?」
 正直女王なんて重荷が自分に務まるとは思えない。けれど、女王になればこの怪人と一緒にいられる。女王になれば、誰からも文句を言われなくなる。誰も自分には命令出来なくなるのだから。例えこの男が何であろうと。その仮面の奥に有るのが醜さでも構わない。
「うん、…なりたいわ。けれど、どうやって私を女王にするつもりなの? だってあなたは本物ではないのでしょう。エリューシオンに力を送るにしたって限界がある筈だわ」
「いいえ、実は方法があるのです。私に任せて下さい。きっとあなたを女王にしてみせます」
 罪を吐き出した怪人は、以前より少しだけ爽やかになっていた。きっとこれが元々の性格なのだろう。朗らかで、柔和な。歪ませられる前の、本当の彼がそこにはいた。
 頼もしい発言に、頬が綻ぶのを覚えた。
「アンジェリーク。もうそろそろ帰った方がいいでしょう。…」
「…、帰らなくちゃいけないのよね。長居しちゃったわ。部屋に戻ったらゆっくり休んでね」
「…あなたも」
 立ち上がった。それでも互いにまだ何となく名残惜しい気がしていた。今帰ったらきっとジュリアスからの監視がもっと厳しくなるだろう。女王試験が終わるまで、今度こそ本当に怪人の元へは行けなくなる。
 怪人がぽつりと呟いた。
「いつかあなたと、一緒に…あなたと一緒に、外に出たいです」
「…うん」
 自分が女王になれれば、きっと出来る。怪人と一緒に昼の世界に出る事は、自分の望みでもある。アンジェリークは決意を固め直すと、足取りも軽やかに森の湖を発つのだった。


つづく


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