夜の帳の中、怪人は目を覚ます(3)


 あれから怪人とは何度か逢瀬を重ねた。逢瀬というと何やら艶っぽい響きを持つが、単に会って話をしただけに過ぎない。話、といっても怪人もアンジェリークもお喋りではないから、ぽつりぽつりと自分自身の事を話しただけだ。アンジェリークは自らが女王候補である事、ロザリアとともに試験を行っているが負けそうである事を言葉少なく語った。怪人は、というと自分の正体を話そうか迷っている節があった。ならば、と何も訊かないで彼と会おうと決めた。それは怪人が仮面を被り、夜にしか現れない事と深い関係があるに違いなかった。軽い気持ちで聞ける話ではない。
 怪人の方も、アンジェリークを信用してよいものか決めかねているふうだった。
 日が沈めば彼の元へ行き、ほんの短い時間を彼とともに過ごす。アンジェリークの新たな習慣が始まった。彼は「自分は森の湖にはいない時もある」と言ったが、実際には彼は毎日そこにいて、アンジェリークが辿り着く頃にはいつも滝を背にしてアンジェリークを待っていた。常に一冊の本と、橙色のランタンと共に。
 彼と過ごす数十分が、1日の中で唯一の安息だった。どうしてか、彼の隣でじっとしているだけで、この上も無く安らげるのだ。何も語らなくてもいい。何もしなくていい。ただじっと、彼を見つめるだけで。

 そんな夜の過ごし方は、アンジェリークの生き方を変えた。簡単に言うと、かなり夜型寄りの生活になった。日が沈みかけた頃に寮を出るアンジェリークを、不審な目で見る者も少なくない。が、それに構うようなアンジェリークではなかった。
 今夜も同じように森の湖に向かうと、やはり先に怪人が来ていた。
「こんばんは。…いつもより、少し来るのが遅れてごめんなさい」
「いえ、…来てくれて嬉しいです」
 白い仮面と闇夜に隠されて見えないが、話し方から察するにどうやら照れているらしかった。人馴れのしない、初心な怪人はそんな時口元を押さえるのが癖だった。アンジェリークは口の端に笑みを浮かべると、怪人を刺激しない程度に怪人へと近寄った。

「いつもはどうやって過ごしているの?」
「読書、ですとか…」
 あとは、彼は曖昧にぼやかした。他に何も無いのを、知られたくはないのだろう。夜にしか生きられない彼には、自由な趣味は許されない。それか、読書以外の趣味を捨てたか。
「じゃあ、星を見た事は?」
「星…ですか? 無いですね」
「見てみましょうよ」
 その日はアンジェリークが、そう誘った。怪人とならば黙っていても安らかな気持ちになれるのだが、そこはそこ、たまには喋るのでもなく黙るのでもなく違う事がしたい。とはいえ、怪人は森からは出たがらないだろう。ここが領域だ、とでも言うように森の向こうを見つめるばかりで、けしてその先に踏み込もうとはしない。
 怪人に恐れを抱かせてはならない。ここまで何とか築き上げた信頼を、一気に失う事になろだろう。どうしてここまでして彼からの信頼を得たいのか、よく分からないままアンジェリークは語りかけ続けている。
「寝転がって。…そうやって、降るような星空を見た事は?」
「…いえ」
「そう」
 ぱったり。その姿勢のままアンジェリークは上半身ごと後ろに倒れた。頭に回した手を枕の代りにすれば、その視界にあるのは星空だけだった。時に風に揺られて瞬いている。
「こんなにきれいなのも知らずに、あなたは夜に一体どうやって過ごしてるの?」
「すみません…」
 しょぼんと肩を落とす怪人を見て、言いすぎたかなと反省する。ごめんなさい、と呟いた。
「責めてるわけじゃないの。ただ、夜に生きるなら生きるで、もっと面白い事があるって言いたかっただけで。…横になってみたら?」
 おずおずと怪人は横になってみせる。芝がくすぐったいです、と微笑みを含んだ声が聞こえた。怪人は何も知らないのだ。本を片手に、それでも実践をした事の無い賢さと愚かさが彼の中でまぜこぜになっているのだと、知った。
「あの一際輝いてる星が北極星。…船乗りたちがあれを目印に航海するのよ」
「…あれですか?」
 彼が指差して見せたのは、どうも自分が言っているのは違うような気がして。アンジェリークも負けじと腕を伸ばした。
「違うわ、こっちよ」
 お互いに指差しあったその瞬間に、つい、と指が触れ合った。
「あ…すみません」
 先に謝ったのは、怪人だった。これくらいで謝る事も無いのに、彼は人に触れられる度に謝っている。
「…私の熱は怖い?」
「いえ…大丈夫です、ごめんなさい」
 もう謝られたくなんて無いのに、という一言はそのまま飲み込んだ。彼が謝る事で納得出来るなら、それでも良い。
「北極星も見た事無いのね」
「いえ、知識としてなら…。けれど、実際に目で確認するのは初めてです」
 言って、片手で顔を覆って見せた。仰向けになった際にずれた仮面を直したのだ。
「随分眩しいんですね」
「あれくらい眩しくなきゃ、目印にならないわよ。…ここはね、とりわけ空気がきれいだから、星がよく見えるのね。私の住んでた所は都会だったから、スモッグの所為であんまりよく見えなかったのよね…。夏休みにお婆ちゃんの家に行って、夜になってあまりの星のきれいさに驚いたものよ」
「色々な場所で星を見てきているんですね」
「星の名前は覚えたものだわ…あんなにきれいなものを、女王陛下が美しいまま保っているってすごい事よね。…私にとっての天体への憧れは、女王陛下への憧れに繋がってるんだと思うの」
 次々に指差しては、あの星は死に掛けているだの向こうの星には物語があるだの訥々と話すアンジェリークを、怪人の緩やかな相槌が受け止めていた。

 そんな日常がしばらく続いた、ある日。
 いつものようにそろそろ図書館に行こうかと準備していたアンジェリークはノックの音に気付いた。
「どちら様ですか?」
「ジュリアス様の使いの者です」
「えっ」
 泣く子も黙る首座にして光の守護聖の名前を出されて、アンジェリークは慌てふためいた。どんな報告がいってもまずいので、とりあえずスカートをはらい髪を撫で付けるとそっと扉を開けた。それくらいで恰好がきれいになるわけでもないが。
 おずおずと扉から顔を見せると、ジュリアスの使いの者と名乗った、瞳に鋭さを宿した男と目が合った。それだけでジュリアスに怒られる未来に身が竦む思いがした。
「ど、どんなご用でしょうか…?」
「ジュリアス様がお呼びです。今すぐにジュリアス様の執務室に向かって下さい」
 嫌な予感は往々にして的中するもの。


つづく


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