夜の帳の中、怪人は目を覚ます(5) |
「あのね。今日は、見てほしいものがあって」 いつものように、とっぷりと暮れてから。既に習慣としてアンジェリークは森の湖に行き、怪人に会った。アンジェリークは怪人に会って開口一番、そう告げる。 既に心は決まっていた。怪人に、自分が抱えているあの疑問を訴える。 「私で良ければ…」 自信無さそうに答える怪人に向かって、アンジェリークは一枚の紙を差し出した。ぺらり、と頼りなく曲がる一枚の書類に記されているのは、数行に渡る表だ。 「これ、見て。…何か分かる?」 「エリューシオンに送られたサクリアの総計…ですね」 「見て、すぐに分かるの?」 「勉強しましたからね。…あなたは万遍なくサクリアを送っているようですね…それで神官の望みにも的確に応えているようです。いい傾向ですね」 淀みなくすらすらと的確なコメントを掛ける怪人に、アンジェリークは目を見張った。 想像した以上に怪人は女王試験について知識を持っているようだ。こちらが正体を明かした時にも驚きひとつ見せなかった事から、何処かの筋から自分たちの情報が齎されていると考えるのが妥当だろう。あるいは女王試験にも、彼は関わりのある人物なのかもしれない。 「それで…?」 怪人はアンジェリークの言葉の先を促した。これを自分に見せてどうするのか、とその目が尋ねている。 「あのね…それ。一見それなりにそつなく力を送っているように見えるでしょ。神官にも頻繁に話を聞いて、かつ偏らないように力を送ってるつもり。同じ女王候補のロザリアならなおさら。不器用な私とは違って、ロザリアは有能だから。…だけど」 その先の言葉をどう伝えたものか、アンジェリークの表情は自然と曇る。 「でも、エリューシオンは災害ばかり起こっているのよ。試験が始まってからだいぶ経ってるのに、安定さえしない。ロザリアのフェリシアにしたってそう。…おかしいとは思わない?」 視線を上げて、まるで睨み付けるかのように怪人を見据える。たじたじとした怪人の仕草に、今自分が向けているだろう意味も無い敵意のようなものを自覚する。 「ごめんなさい、あなたを責めたいわけじゃなくて。…ただ、私はともかく女王候補としてその素質も十分にあるロザリアまで育成が進んでないっていうのは変だと思うの。そりゃ、確かにロザリアの方が育成は順調だけど…根本的に二人とも遅れてるのよ。私が負けているからって、負け惜しみとしてこんな事言ってるんじゃ無いからね?」 「分かります」 「もっと育成は順調でもいい筈。過去の文献を読んでた時に知ったわ、女王試験ってそう何百日と続くものじゃないんですってね。…この計算でいけば、私たち1年経っても結果が付かない事になるわ」 育成の具合が、あまりにも遅すぎる。ロザリアに相談した時には、「わたくしたちの実力不足だから」とけんもほろろの回答しか得られなかった。実力不足。それも原因として、考えるべきものではある。自分はこの世界の理について知らなさ過ぎる。 しかし、とアンジェリークは思うのだ。やはり送る力が一種足りない事が、一番の問題ではないのだろうか。 「あなたは女王試験が行われるようになった経緯をご存知ですか」 頭上から降ってきた声に、慌ててアンジェリークは目を上げた。ひどく真剣な面持ちで、今までの話題とは少しずれた言葉を投げかける。女王試験が行われるようになる経緯、なんてスモルニィの学生には何も考えずとも言える程の常識だ。アンジェリークは即答した。 「陛下のお力が弱まっているからではないの?」 「いえ、確かにそれで間違いないのですが…ではなぜ、陛下のお力が弱まっているのか考えてみた事は?」 「…」 ぽかんと口を開けたまま、しばらくぼんやりしていた。 そういえば、考えた事は無かった。刷り込みのように「女王は時期が来れば交代するもの」と聞かされてきた。それが当たり前なのだと思っていた。だが自分たちが今まで暮らしてきた世界では、一体どのくらいの周期で女王交代が為されるのか知らされる事は無かった。ヒトの世界で換算するにはひとりの女王の治世はとてつもなく長いというのは知っているが、その具体的な長さは知らない。 知らないのではない、知らされないのだと直感した。星の元に生きる者は、知らされない。飛空都市に生きるものでない限りは。なぜか。 知られては困る事を隠蔽するためだ。 「なぜ…?」 知られては困る事。それが女王交代の理由なのだ。目まぐるしい速さでアンジェリークは考え続ける。鳥が網に引っ掛かった時のように、とある考えがアンジェリークの脳内に消える事無く留まった。 ――この世に、サクリアは全部で8種有る。 いつか聞かされた、絵本の中身。 誰もが本当だと信じている、全部で8種なのだと。 …幼心に感じたように、本当は9種なのだとしたら。そう仮定してみても、「だとしたら何なのか」という思いはついてまわった。それだけが答えでは、きっと無いのだろう。けれど。 この世にサクリアは、やはり9種あるのだ。… 堪えきれない思いを感じて、アンジェリークは子供の頃から考え続けてきた疑問を口にした。親にも、友達にも、そして好敵手にも笑われ相手にされなかった疑問。 この怪人ならば、分かってくれるのではないか。そういう期待がある。 「…どうして世界に8つしか、サクリアは無いの? …私ずっと考えてたの。授業ではサクリアは8つだって、だけど私には重要な何かが欠けているような気が、ずっとしてて」 「何か、とは?」 「そうね、例えば…大地のサクリア、なんてどう? 大地以外のものがサクリアによって作られているのに、大地だけは自然のものを利用しているなんて変だわ。地のサクリア。それが多分みんなの暮らす世界を作る根幹だと思うの。…あなたはどう思う? やっぱり大地のサクリアなんて私の妄想に過ぎないのかな」 自信は無い。しかし、また馬鹿にされるかもしれないという怖さは無かった。人が受ける痛みに何より敏感であるこの怪人は、何をするにしても控えめである事は明快だった。 「昔からね、そうなんじゃないかってずっと思ってたの。でも誰に言っても信じてくれなかったのよ。…もし、そんなものがこの世に存在するならば、私たちの育成だって上手くいかないわけだわ。送る力が、一種足りないんだもの」 荒唐無稽としか思えない可能性を聞かされて怪人はしばらく沈黙していた。その静けさに耐え切れず、アンジェリークは自ら否定した。 「やっぱり、無茶な事言ってるわよね、私」 「いえ、そんな事は…」 「分かってる。賛同がもらえなくて元々なの。でも、あなたに聞いてもらえて何だかすっきりしたわ。他の誰かみたいに、頭ごなしに否定してかかるような人じゃないって、知ってるから」 「…」 怪人の、呼気。それが耳元にまで届いて、アンジェリークは月明かりを背に立つ怪人を見つけた。この男は何かを言おうとしている。緊張した面持ちで何処かの地平を見る怪人。ざあ、と風が鳴って怪人の青緑の髪を攫った。 風が、強くなり始めていた。 「サクリアがもうひとつ別にある、なんて言う人には初めて会ったんです」 やがて決意したように灰の瞳が光った。 「そうね、そんな変な、非常識な事言うの、私くらいなものだわ」 「私は…あなたこそを、ずっと待っていたような気がします」 「…?」 待っていた。その意味を尋ねるよりも前に、間髪無く告げられた怪人の次の言葉に、アンジェリークは絶句した。 「地のサクリアは存在します」 その言葉を聞いた途端、ぞっとする感触が、背中を伝った。やはり自分は正しかったのだ。諸手を上げて自分の正当性を喜ぼうと思ったが、それにしても怪人の険しい表情が気になった。いつになく緊張した面持ちで怪人は立ち竦んでいる。その表情は後悔、とも取れた。 怪人が緊張のあまり握った拳は、月光に照らされ青白かった。 「私たち候補には言ってはならない情報…なんでしょう?」 「…そう…ですね。この事実はどうか、内密に願います」 「そう。あなたの存在と同じなのね。分かったわ」 怪人もそう。地のサクリアといい、秘密にしなければならない事がこの世には多すぎる。嘆息して僅かに笑みを零すと、怪人はどうしてそこで笑うのかといったふうに小首を傾げた。 「秘密にするのは構わないわ。私が正しいって事が分かれば、それで十分。…でも、ひとつだけ聞かせて。あなた、どうしてそんな機密事項ばかり知っているの?」 「それは…」 訊いてくれるな、とばかりに顔を背ける怪人。 「分かってる、無茶な事訊いてるって。ただこれだけは分かって、あなたの秘密を暴きたいんじゃないわ。話したくないのならそれでいいの。…でも、何だかあなたが秘密を全部抱え込んでるような気がして」 仮面の事も気にかかる。この男は全てをひた隠す事でしか生きられないのだと、思いそうになる程に。隠さなければならないのは、その仮面の奥に潜む真実。彼は思い込んでいる、それが全て醜いのだと。 「楽になるのなら、どうか話して」 自分はこの怪人の事が、気にかかっている。 それは仮面を付けてなお夜にしか出現出来ない彼への同情と言えるかもしれない。それは女王候補としての自覚があるなら誰でも持ちうる感情である慈愛と言えるかもしれない。しかし、その正体がどんな気持ちであれ、彼を放ってはおけなかった。 「私…は…」 「…うん」 「既に抹消されたサクリアを持つ者…。私は地の守護聖…です」 つづく |
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