夜の帳の中、怪人は目を覚ます(6)


「どういう…事なの。抹消…って」
 訊いた端から、アンジェリークは「やめて!」と大声を出して怪人にしがみ付いた。
「やめて。そんな苦しい顔、させたくて全てを明らかにするように頼んだわけじゃない。何も言わないで!」
 怪人からの答えは、いつまで経っても無かった。不審に思って見上げれば、そこには顔を硬直させ、眉間に皺を寄せて目を閉じる彼がいた。アンジェリークからしがみついたというのに、抱き返す腕さえ無い。
 怖いのだ。人の体温が。それに気付いて、慌ててアンジェリークは体を離した。対人恐怖症の気がある怪人に、この抱擁は拷問でしかない。
「ごめんなさい」
「い、え」
 囁き返す、その声は僅かに震えていて。
「何も、言わなくていいわ。あなたが守護聖だなんて…それも私がずっと思い描いてた地の守護聖だなんて、驚きでちょっと言葉が出ないけれど…でも。それだけ、分かったのなら、もう十分。もう十分だから」
「…」
 怪人が、無言で腕を差し出す。その意図するところが分からず、アンジェリークは彼を見つめた。彼女の発言を肯定するでもない、否定するでもない、ただ言いにくい事柄を口から何とか吐き出そうとしている。
「…聞いてほしいのです」
「…?」
 その腕に絡みつく、泥が見えた気がしてアンジェリークは眉を顰めた。怪人にまとわりつく恐怖。それでも語りたいと言うなら、止めはしない。
「既に抹消されているのは…私が醜いからです」
 言って、怪人は自分の白い仮面に触れる。つるりとして、月明かりによく反射するそれ。
「仮面の奥に有るのは傷跡です。…それを女王陛下は忌みました。陛下は私を、無期限の幽閉処分にしました。神聖なサクリアを持つ守護聖が、醜くあってはいけないのですから。私は、この世界にいてはならないのです」
 傷痕? 幽閉処分? …醜い?
 次々と、怒涛のように押し寄せる単語にアンジェリークは身が震える思いがした。顔を俯かせたその時、怪人の体が小刻みに震えているのが目に入った。無理に口を開く事など無いのに、告白する事に対して怪人は怯えを持っている。
「そんなに怖がっているのに、どうして無理に」
「あなた、が…他の誰でもない、あなたがここに来てくれたからです。いつかは誰かに話さなければならないと思ってました。それが、あなただったからです」
 怪人の意味するところは、アンジェリークには伝わらない。どうも遠まわしに発言するのが彼の癖らしく、それ程頭も良くないアンジェリークにとっては暗喩など意味を持たないのと同じだ。
「分かった。あなたがそう言うのなら…私はあなたの告白を、受け止める」
 それがどんな病魔に冒された告白でも。彼が、そうある事を望むのなら。受け入れてみせる。わけもなく、ぶるりと身震いするのを覚えた。怪人と同じくらい、自分も怯えている。
 彼が何者であるのか、知ればいよいよ引き返せなくなる。
 怪人はひとつ、深い息を吐き出すと流れるような声で静かに話し出した。
「昔々ある所に子供がいました。子供は醜くて、たいへんおぞましい顔をしていたそうです」
「…っ」
 また、だ。この怪人は、どうしてか自分を貶める発言ばかりする。そのように自分自身の評価を下げても、得られるものなど無いというのに。だが今自分に出来る事はそれに反論する事ではなく、ただ耳を傾ける事。衝動を堪えただ黙って頷いて、先を促した。
「ある日まではその少年は幸せに過ごしていました。少年の環境が激変したのは彼の両親が病気で早死にしたあとです。子供は彼の叔母にあたる人物に引き取られる事になりました。引き取った子供を見て、彼の叔母は恐怖しました。そう、その子供の醜さにです。そうはいってみても、彼の母親も父親も死亡しています。親戚だからといって一度引き取った手前捨てるのは、周囲の彼女の評価に関わります。彼女は自分の腹からは出なかった子供を育てるしかありませんでした。それでもまだ良い方だったんです。…叔母に子供が生まれるまでは」
 その先を。ある程度予測する事が出来て、アンジェリークは下唇を噛んで堪えた。どれだけ無体な仕打ちを受けたら、怪人のような成人が出来上がるのだろうか? 何においても自信を喪失しており、自らをもって「醜い」などと言い切ってしまう人間が。
「それまでは義務感で仕方なく育てていた醜い方の子供が、途端に邪魔になった叔母は、何か些細な事で何度も何度も彼を打ちました。醜い、とんでもない役立たずのおぞましい生き残りの子供だと言って詰りました。…子供は為すがままでした。嫌われれば孤独になる事が分かっていたからです。彼には選択肢がありませんでした。自分ひとりでは生きてゆけない事は、幼い彼にもよく分かっていました。暴力といっても死ぬ程じゃありませんし、機嫌の良い時はご飯もきちんと作ってくれるので彼にとっては小さな問題だったようです。…子供は成長して男になっても、やっぱり打たれ続けていました。彼はしかし、仮面をつける事を覚えていました。そんなに醜いのならば、見なければ良いのです。最初は胡散臭そうにしていた義母でしたが、段々と暴力の数が減っていくのを目の当たりにしてようやく彼は気付いたのです。醜いのならば、隠せば良かったのだと。そして、彼がひとり立ちできるようになる少し前の事です。彼は地のサクリアを保持していると主星から連絡があり、男は守護聖になる事が決まりました。男は正直言って何の能力も持たない人間でしたから、守護聖としてお給料がもらえるならばこれ幸いとそれを請けました。義母はさっさと男を追い出し、今はどうしているか知れません」
「その男の人…それからどうなったの?」
 唾を飲み込み、先を促した。聞くのが怖かった。しかし、彼が自主的に告白をしてくれているのだ。何を聞いたとしても、全てを受け入れ、納得し、そうした上で彼を見つめてあげる事が必要だった。
「男はすぐに女王に謁見しました。謁見の間に現れた男を見て、女王は恐怖心にかられ咄嗟に男を打ちました。殴りました。なぜって、男の、仮面をしていましたがそれでもなおにじみ出る醜さに気付いてしまったからです。女王には仮面などあってないようなもの。その能力ゆえに、見たくないものにまで神経を払って見てしまうのですね。女王は仕事の度に男の顔を見るのを嫌がりました…そして何とか見ずに済むようにと昼の世界に出る事を禁じたのです。あとは、先程お話しした通りです」
「なんてひどい…」
 女王が、そんな事をするなどとあるまじき事。心のうちに生まれるのは、女王への強い反発。自分が女王なら、絶対にそんな事はしないのに。初対面の人間を打つなど、非常識すぎて馬鹿げた行動だ。女王だから何をしても許されるのだと、信じているのだろうか。
 許せなかった。
「…女王が地の守護聖に関する資料を破棄した事は既に述べました。あまりに醜く、外に出られない面をしていた彼の代が終わらない限り、地の守護聖が外の世界に表れる事はありません」
 そうして、怪人は心と体に幾つもの消えない傷を拵えた。醜いと自称しなければ生きていけない程に。
 ぼろぼろと涙が零れるのを、止められなかった。無言のまま、出来るだけ怪人を刺激しないために嗚咽は殺してアンジェリークは涙を流し続けた。そのアンジェリークを、ただ不思議そうに怪人は見つめている。理解出来ない、と片方だけ確認できる灰の瞳が告げていた。
「なぜ、あなたが泣くのです?」
「だって、だって、」
 声が詰まって、ひとつも言葉にならなかった。怪人ははっと気付いて、そっとアンジェリークの背中を撫でて落ち着かせる。その手つきも、いかにも物慣れていないのにアンジェリークは泣きながら、それでも少しだけ微笑を取り戻した。
「きっと、その男の人も、泣いたと思うから。…ううん、違うね。その男の人が泣けなかった分を、受け止めてるの。…」
 その男は、きっと泣く事すら許されなかった。暴力に甘んじるしか、生きる道の無かった哀れな男。誰がその哀れさのために泣くのだ? …それは自分の役目だ。
涙の止まらないまま、救えたら良いのにとひたすら感じ続けていた。
 怪人の過去を。未来を。ひとつでも救えたら良いのに。
「私にはあなたが…理解出来ないのです」
「どう、して」
「どうしてこんなに、私によくしてくれるのか。どうしてそんなに優しいのか。…ずっと。私は嫌われ続けてきたから、好意を受け取れきれないんです。素直に、感謝出来ればいいのにって、考えているのに。怖くて、それが出来ないでいます」
「感謝なんて、要らないわ。自分が相手にしてあげたいと思う事を、してあげれば良いの。それがきっと、感謝になるから。…少なくとも私にとっては、今日のあなたの告白はあなたの言う所の感謝だと思うわ」
「自分が相手にしてあげたい事を…」
 反芻するなり、怪人はしばらく目を瞑っていたが突然腕を開いて、未だに涙の止まらないアンジェリークの体を優しく包み込んだ。
「…?!」
「あなたが落ち着くまで、…こうしています」
 腕が、震えている。怖さを乗り越えてでも、アンジェリークを落ち着かせたいと考えてくれているのだ。その優しさに、またアンジェリークは涙が止まらなくなった。
 本当に優しいのは、彼の方だ。優しすぎるゆえに、繊細すぎる精神を持ってしまった。義母の元から逃げる選択肢だってあったろうに、心配をかけてはいけないからとそこに留まり続けた彼の姿勢が見えるようだった。優しくて、そしてなんて不器用な人なのか。

 怪人の胸の中で、いつまでもいつまでも泣きながら、彼女はあるひとつの決意を固めていた。


つづく


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