夜の帳の中、怪人は目を覚ます(7)


 荒々しく部屋のドアをノックする音に、アンジェリークは机の上の資料から目を離してそちらを見遣った。あの怪人に関する資料を漁っていたこの段階で人が来るのは苛立ちを抑えきれないところだが、どのみちそろそろ来るだろうと思っていた頃だ。土の曜日の、夕闇も近いこの時間に来る人間は奇特以外の何者でもない。
 誰か来たのか、見当はついている。資料を机の中に手早く隠すと、「どうぞ、ロザリア」と呼びかけた。と、即座に、怒りに打ち震えた、髪さえ逆立ちそうな様子の青い髪の女王候補が扉を開けてきた。アンジェリークよりも試験の進み具合の順調な女王候補、でもある。
「どうして来なかったの!」
 ロザリアはアンジェリークの隣にまで歩み寄ると、挨拶も抜きにそんな事を告げてくる。言いたい事は分かってはいたが、敢えて怒りを煽るように冷静に呟いた。
「来なかったって何処に」
「決まっているでしょう、定期審査よ!」
 毎週の大陸訪問とはわけが違う、女王陛下や女王補佐官がおわす定期審査にアンジェリークが出席しなかった事に対して、ロザリアの怒号が飛んできた。
「一体全体、あんたってばどういうつもりなの!」
 アンジェリークの肩を掴んで、がんがんと揺さぶってくる。彼女の声には怒りよりもむしろ悲痛さがあった。それをそっけなく見下ろしながら、アンジェリークは次にどう発言するべきか迷っていた。
 ロザリアに全てを告白するつもりは無い。生まれつきの女王候補であり、宇宙の仕組みになど何の興味も無い彼女には、アンジェリークの全てを疑ってかかる思想は悪影響しか齎さない。アンジェリークはロザリアには自分とは違う真っ当な女王候補として歩んでもらいたいと願っている。それに心配な事がひとつある。ロザリアがこの頃熱心にジュリアスの元に通っている事である。恋愛など、大いにすればいいけれど、そのためにアンジェリークと怪人との密会を露呈されては困る。
 いつかロザリアが怪人の事を危ぶみ、アンジェリークの敵となるかもしれないという危惧はこのところ毎日している夢想だ。アンジェリークを救うという名目で、ジュリアスをけしかけ怪人を罵倒しかねない。それは避けたいところだった。
 あれこれと考えた挙句、適当な文句が出てこなかったのでアンジェリークは溜め息とともに言葉を吐き出した。
「答える必要は無いわ」
 わざと冷たく返せば、ロザリアの言葉からは急速に熱が消えていった。
「一体どうしちゃったのよ、この頃のあんたってば…試験にも全然熱が入ってないみたいで…」
 試験など、もうどうだっていい。気になるのは怪人と、怪人に纏わる話だけだ。だがそれらを話す気にはなれず、曖昧に視線をぼやかした。彼女の視線を、真っ向からは見られない。
 怪人を打つような女王の、跡継ぎになるなどごめんだ。あれに利用されるくらいなら、至上最悪の女王候補として名を残した方のがどれだけマシだろうか。それが女王試験への意欲を失くした最大の理由だ。それに怪人のような歪んだ者がこの宇宙にある事にどうしようもない嫌悪感も覚える。この宇宙は腐っているのだ。自分が腐らせたわけでもないのに、腐敗した宇宙の支配を任されるのなど、一体何の冗談なのだろう。
 女王を信じていた。崇拝していたのだ。だから女王候補になれて嬉しかった。その膝元にまで近づけたような気がして。だが、女王はそんなアンジェリークの期待を裏切ったのだ。
「…これ以上試験を続けても無意味よ。きっとロザリアが勝つわ。私、もう負けてもいいの」
 嘘は吐いていない。が、実際のところロザリアの方がかなり優勢といったところで、無意味という程決定的な差があるわけではない。二人ともが育成に手間取っている今、ここからでも十分に取り返せるレベルだが、もはやアンジェリークは試験への興味を失っていた。
「だからって自分から降りるなんて許さないわ。それじゃわたくしがずるをして勝ったようじゃないの。…勝負がつくまでは、ここにいて。お願いよ」
 言うとは思っていた。ロザリアを真っ当な手段で勝たせるためにも、自分は試験の結果が出るまでは付き合うつもりでいた。その方が、後々のロザリアの聞こえもいいだろう。友人として、ライバルとして自分に出来る事をして、ロザリアを女王として残してやりたい。
「うん…分かった。試験終了までは、ちゃんとやるから。今度の…定期審査も、出るから」
「そうして頂戴」
 そこでぷつり、と会話が途切れる。ロザリアに意欲が無くなった理由を訊く時間を与えないため、アンジェリークは顔をぱっと上げて尋ねた。
「それで…陛下は何て?」
「定期審査の事? 陛下から賜ったわけじゃないわ、実質的にはディア様から伺っただけ。…ディア様が仰るにはね、サクリアのバランスが悪くて、育成は進んでるようだけれど結果がついてきてない、だって。本当におかしいわ。8種、均等に力を送っていただいているのに」
「やっぱり力は9種あるんじゃない?」
 冗談混じりにそんな事も言ってみる。どうせロザリアは本気とは取らない。
「あんたまだそんな事言ってるの? …とにかく、このままだとフェリシアは滅びかねないから原因を早急に調査せよ、ですって。今夜は徹夜になりそうね」
「…。送ったサクリアが均等でないと大地は滅ぶの?」
「ディア様のお話によると、そういう事らしいわ」
 アンジェリークは俯いて、今聞いた話をまとめていた。
 この宇宙に地のサクリアは注がれているのだろうか。ふとそんな事を思った。彼は自分が地の守護聖だと言った。ならばなぜひっそりと埋もれて生きているのだろう。注がれているならば、なぜ彼は軟禁状態に置かれているのだろう。それは顔の傷だけが原因では無い気がする。どのような事情があれ、守護聖であるならば前に出て来ていい筈だ。それがただ醜いというだけの理由で情報操作まで行われたというのは異常だ。注がれていないのなら、なぜ彼は何もしないのだろう。どこか、彼の話にひっかかりを感じた。彼はまだ何か話していない事があるのではないだろうか。
 滅ぶ。嫌な単語だ。
 突然黙りこくって一点を見つめるアンジェリークを不気味に思ったのか、ロザリアは目を丸くした。
「ちょっと、どうしちゃったの、あんた」
「あ…ごめん、何でもないの。ちょっと色々あって、考え込んじゃって。うん、ごめん、ちょっとさ、考えなきゃいけない事があるからもう帰ってもらってもいいかな、ほんと、ごめんね」
 口調とは裏腹に相手に有無を言わせない強引さでロザリアを追い出すと、アンジェリークは瞬きも忘れて空中を眺めては考え続けていた。

 彼は。きっと、決定的な何かを隠している。

 不可解さが胸の奥に燻る。彼は嘘を吐いたのだろうか。だとすればアンジェリークは体良く騙されたという事になる。
 …いや。それは無いとアンジェリークはかぶりを振った。あの眼差し。あの震え。そして怪人自身の性格からいっても、あの話が嘘である可能性は低い。そうなると、人に話してはならない何かを彼は保持していると考えるのが妥当だ。
 考え込んでいても何も始まらない。とにかく今自分に出来る事…、と脳内で答えを弾き出す。
「…会いに行かなくちゃ」
 事情が分かっても、分からなくても。教えてもらえても、もらえなくても。とにかくいつもの時間も近付いている。この時間にここを出れば、会える筈だった。冷え込んできただろう外気を撥ね退けるために上着を着込んで、アンジェリークは部屋を飛び出した。

 いつものように、公園の外周を歩いて森の湖に向かう。公園の中を突っ切って行った方が早いのは分かっている、だがそれだと人目につきやすいのも確かなのだ。この時間帯とはいえ、公園にいる人間は皆無ではない。その中で足早に通り過ぎようとする女王候補がいれば不審に思われても仕方が無い。夕日が沈んだ後には怪人が出没するという噂があるのなら尚更。
 一心不乱に、余計なものを見るまいと歩みを進めていたアンジェリークであったが、突如背後から掛けられた声にびくりと身を震わせ立ち止まった。ここにいる筈の無い、声。声音に混じるのは、明らかな叱責。
「何処に行くのだ、アンジェリーク」
「ジュリアス様…」
 慌てて振り返れば、そこには神々しいまでの雰囲気を持つ光の守護聖がいた。なぜここに。目を見開いて疑問を訴えるが、かえってくるのは無表情でしか無かった。
「このところ試験にも力が入っていないようだが。それに加えて、深夜の徘徊。…何を考えている」
「…すみません」
 ジュリアスに明らかにされてしまった今、今夜彼に会う事は難しい。立ち去りかけた時、ジュリアスが引き留めた。
「待て」
「…まだ何か?」
「こんな時間に、何処へ行くと訊いている。質問に答えよ、アンジェリーク」
「…」
 会った場所が悪すぎる。いつもならば図書館と言って逃げるところだが、この位置から図書館に向かうなど不自然極まりない。
「思索に耽っていました」
「…どうしても、真実は言わぬというのだな」
「真実? 仰る意味が分かりませんが」
 続く言葉に、アンジェリークは彼の正気を疑った。
「そなたが留守の間に、部屋を見せてもらった」
「なっ…」
「怪人の事を調べて回っているようだな。それだけではない。以前に詰問した時には分からなかったが、本当に怪人とも会っているようだな」
 驚きのあまり、口をぱくぱくとさせるだけで言葉にならない。部屋に鍵がかかっていたとしても、あの部屋の所有者は突き詰めれば女王のものである。アンジェリークが持っているのとは別の、マスターキーがあるに決まっている。けれど、人の部屋を荒らすなんて行動が許される筈が無い。…本当に、あの女王では、駄目だ。
 何を見られたのか。怪人に関する資料か。そこまで考えて、ある可能性に思い至ってアンジェリークは声高に叫んだ。
「日記を…見たんですね!」
 さっ、と顔面から血の気が引いていく。思ったままを綴ったあの日記には、この頃怪人の事ばかり記していたから。怪人を周りに接触させないために、女王はそこまでするのか。
「夜中には出歩くなと注意した筈だ。それは引いては怪人に会ってはならぬという意味だ。…今後、夜半の外出を全面的に禁ずる。…部下の者を連れて行かせる。夜中にはそなたの家を見張らせるから、そのつもりで」
 横から出て来たのは、いつか出会ったジュリアスの部下だった。
 言葉も抵抗も無く、部下に連れられて歩きながらアンジェリークはロザリアの事を考えていた。ジュリアスひとりでここまで出来る筈が無い。達しがあったのは女王。それを受け取ったのがジュリアス。…協力したのが、ロザリアだ。
自分は遅かった。既にロザリアはジュリアスに骨抜きで、かつそれは女王の傀儡に成り果てている事を意味していた。


つづく


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